IRORI中村苑子『水妖詞館』鑑賞 ~遠景まで

前書き

 俳句オープンチャットIRORIにて、週次の中村苑子鑑賞をさせていただいている。週に三句づつなので進みはあまり早くないが、元より底知れない中村苑子の詩的世界に深く踏み込もうというのだから、ライフワークと捉え腰を据えるしかない。今回は、『水妖詞館』「遠景」の章までの観賞をまとめたいと思う。
 同じく俳句オープンチャットIRORIでは「ゲッパチ読書会」という俳論読書会が行われていて、そこで坪内捻典『過渡の詩』の「書評-連作形態を追って」を読み、続いて渡辺白泉の『支那事変群作』および山田征司氏の第三十三回現代俳句評論賞受賞作『渡辺白泉私論』を取り上げたことで、今回の『水妖詞館』を“連作”という切り口から再解釈してみたくなった。たとえば白泉の連作は一句ごとの完成度は必ずしも高くないものも含まれるが、一連の作品として読み下すことで、戦場の臨場感、戦争のリアルやおどろおどろしさが迫真的に喚び起こされる。『水妖詞館』を連作と捉えると、黄泉と現世の間を周遊する詩人、以外の苑子像を結ぶことができるのではないか。
 昨年、私は黒田杏子氏による『証言・昭和の俳句』新装版(コールサック社)を底本にしての現代俳句協会青年部主宰の勉強会にてパネリストを務めさせていただき、中村苑子と戦争、という軸に沿って発表を行った。苑子フリーク(?)にとって、中村苑子の詩的世界が「“水”を境界とした“黄泉”への接続」という強い意識に貫かれていることは自明のことと思う。『証言・昭和の俳句』にも、戦没した亡夫の骨壺の中身が、没後十年以上を経て全て液体になっていた体験から「人間とは水だ」との確信に至った経緯が記されている。先述の勉強会では、この決定的な出来事を根拠としながら苑子を“戦争俳人”の一人として紹介したわけだが、「それだけの根拠で中村苑子を“戦争俳人”として扱うのは無理がある」というご尤もな意見を頂戴してしまった。
 言い訳をするならば、私としても元より中村苑子を“戦争俳人”に括る気は毛頭なく、やや忘れかけられているこの天才的な俳詩人を再び現代俳句の俎上に載せたい、という分不相応な企みを抱き、先の勉強会のプログラムに組み込ませて頂いたのであった。とはいえ、苑子の詩と戦争には切っても切れない繋がりがあるのではないか、どこか地続きではないかと、昨年の勉強会以後ももやもやと考え続けてきた。実際、苑子の手によるエッセーを集めた『俳句自在』「ある女の風景」の章にも「私の中で戦争は終わりを告げない」と記されており、亡夫の影は苑子の詩の中に生涯を通して見え隠れするのである。
 前置きが長くなったが、まだ僅かではあるが複数人で『水妖詞館』をじっくり観賞していただける機会に恵まれたことで、恥ずかしながら自身の読みがいかに浅はかであったかを再認すると共に、「連作としての『水妖詞館』」という、これまでありそうでなかった視点での再評価の端緒が開かれたことを喜ばしく受け止めながら、(連作という方法の評価にやや相反することは承知の上で)いくつかの句を抄出し、IRORI中村苑子読書会のこれまでの成果を示していきたいと思う。

喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

 『水妖詞館』の栄えある第一句。元々、苑子自身が病の宣告を受けて死を覚悟していた中で編んだこともあり、句集全体に死への強い意識が表れているわけだが、今となっては「死と水」を一貫して描き続けた中村苑子の俳詩人生そのものの序文のように響いてくる。竜のおとし子そのものに季感はなく、無季句であると同時に「いま生み落とす竜のおとし子」と叙述して虚の世界へと読者を導く。“水妖”とは龍なのだろうか・・・。

跫音や水底は鐘鳴りひびき
撃たれても愛のかたちに翅ひらく

 この二句は一連なりで取り上げたい。
 実のところ、この二句の間には内容的に弱い切れがあると思われる。片や彼岸と此岸を行き来するかのような抽象俳句の金字塔であるが、もう片方は連作から抜き取られたら陳腐ととらえられかねない一句である。一句の中だけでなく、句と句の間にも飛躍を設けて、イメージの連鎖で以て読者の“内なる声”のよるストーリーテリングを求める手つき。「撃たれても」に戦争の記憶の痕跡(中村苑子の最初の夫は戦死している)を見出したいわけだが、この読みすらも正しいとは限らず、そもそも解釈すること自体が妥当なのかも分からない。

木の国の女の部屋の霜格子
火の色の石あれば来て男坐す
わが襤褸絞りて海を注ぎ出す

 ここも三つの連なりで取り上げたい。木の国は日本のことであり、そこに氷の格子で囚われた女とは銃後で夫の帰りを待つ苑子自身のことなのだろうか。そうすると、「火の色の石」とは自分のうちの、前夫に対する燃えるような想いであり、前夫が身を置いた戦場も同時に暗示しているのだろうか。「わが襤褸絞りて」は前夫と苑子の逢瀬を示唆し、海は新たに生まれるはずだった生命への憧憬であろうか。
 繰り返しになるが、このように“解釈”を施すと苑子の詩的世界は一気に色褪せていく。この“解釈”が、創作の端緒を言い当てている可能性はあると思う。だが、解釈が必要以上の力を持って作品を殺してしまうことを苑子は嫌ったのであり、だからこそ平板な意味に墜ちえない言葉を選び取って句を為していたのではないだろうか。

貌を探す気抜け風船木に跨がり
貌が棲む芒の中の捨て鏡

 中村苑子の俳詩において、“貌”は魂の象徴とされる。自身の魂を探し求めているのに気が抜けたまま木に跨っている風船とは何を示唆するのだろうか。もはや春の季感はなく、木に浮かび上がる“貌”には読者の心象に応じて百種百様の相を呈するだろう。
 また、命の終わりへ向かう芒の季節の、原っぱの真ん中に捨ててある鏡に“貌”が棲んでいるという把握は、誂え向きでありながら「隣り合わせの現世と来世」という苑子俳詩の主題を強く意識させるものである。

来し方や袋の中も枯れ果てて

 唐突に境涯的な詠みっぷりの句が挟まる。“袋”に重ねられているイメージはいかなるものか。母親か、それとも自分を暗示しているのか。屈折的な「も」によって内も外も枯れていることが分かる。終末感を暗示しているようでもある。読者に境涯句として読ませることが狙いなのだろうか。ではなぜ「袋」などという曰くありげな道具立てを持ち出すのか。苑子俳詩は相変わらず一筋縄ではいかない。

藪の中北窓が開き相逢ふ椅子

 「北窓が開き」は春の季語。袋の中まで枯れ果てた冬が終わり、藪の中の家の内奥まで迫って扉がぱかっと開いた瞬間、誰も座っていない椅子だけがお見合いするというホラー映画冒頭のような情景。ことばの構成力、景の喚起力は特徴的だが、それ故に「椅子」という道具立ての“不在”性に纏わりつくようなそら怖ろしさを感じる。この句から『遠景』の末尾に向かうに従い、“不在”の前夫(?)が今どうなっているのかを示す句群が続く。

死花咲くや蹴りて愛せし切株に
落丁の彼方よ石の下の唄よ
行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨

 取り上げ方として乱暴なのは重々承知で、最後の三句を纏めて取り上げたい。
 「死花咲く」は名誉の戦死の言い換えと捉えることができるだろうか。慣用表現なので、これが実体を持つことはあり得ないのだが、「切株に」と落ち着けることで抽象を意味そのままに具象化させるような技を見せている。かつ、その「切株」は「蹴りて愛せし」という屈折が挟まる。島津亮の有名句の首絞めも力が緩いものとされているが、「蹴りて愛せし」の力の程度はどのようなものなのか。少なくとも、戦地に赴く以前は前夫を尻に敷いていた、などという浅はかな意味ではなかろう。「切株」を「蹴りて」いたのが、国家、もしくは時代の大きなうねりのようなものだったのでは、という連想すらさせる。それは、次句の「落丁の彼方」から読み取り得るのではないか。
 「落丁の彼方」は、公権力による抑圧を示唆させているようにも読める。苑子は戦後日本で銃後の女たちが省みられなかったことをエッセーにてたびたび指摘している。「死花」が咲き、前夫が時代の彼方へ消えていったそのイメージを連ねたまま、パブリックによって「石の下の唄」とされていった前夫の魂と、苑子を含めた銃後の女たち。苑子があくまでも意味を複層化した表現によって「われ」を描き、“戦争”や“戦後”というキーワードを用いなかったのは、「落丁の彼方」への強い抵抗意識があったからなのだろうか。
 「石の下の唄」はパブリックには届かない。石の下の唄はあくまで「われ」の問題である。「母郷に樹と立つ骨」とは、水と化した前夫の魂とその輪廻なのだろうか。はたまた苑子自身の消えゆく魂なのだろうか。やはり「行きて睡らず」の主体の問題は残り続け、解釈の確定を拒否する。確たる解釈を施されないまま水となって地へと還り、再び水を伴って生を受ける。苑子俳詩の水底に鳴り響く鐘は、もはやその底部を覗き見ることすら叶わないほどの深みから響き続けているように思えてならない。

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