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誰も傷つけずに生きたいけど、人生そうもいかないわけで

 自分の言葉で、人を傷つけたくないという気持ちが常にある。
 ちょっと苦しくなったので、noteで整理してみる。

 自分について「こうありたい」と表で発言すると、そうでない人を批判していることにならないか、とか、私の言葉を見て傷つく人がいないか、とか、不安になってしまう。
 「私の気持ちを分かってほしい」という気持ちがないではないが、そこまで強くない。ただ、自分の言葉が誰かへの矢やナイフになっていないかということが気になるのである。

 一つの言葉について思うことは人それぞれであることも理解している。

 たとえば、「私は猫より犬が好きかな」と発言したとする。発言者としては、「猫派と犬派で分かれることが多いけれども、私としては猫と犬への感情にそこまで差があるわけじゃないけど、強いて言えばいささか犬の方が好きだと思う。maybe」という気持ちをこの一言に込めているとする。
 この発言に対して、「わかる!」「犬かわいいよね」と肯定的に思う人、「猫に失礼だ!」「わざわざ猫と比較するな!」と否定的に思う人、「わかる!猫ってかわいくない!」と猫dis仲間であると捉える人、「そう、犬って何よりも尊いよね」と他全ての比較対象と比べて犬をあがめていると捉える人、「わざわざ自分の好みを表明するなんて、自我出しすぎ」「犬グッズをプレゼントしてもらいたいがためにアピールしているんだろう」と発言の意図を裏読みする人、あとはマジで一ミリも興味がない人……が、出てくるんじゃないかなと思うのである。
 これはもちろん極端な例だが、Xや、インスタのコメントなど、長々書かないSNSや、LINEでふとしたときにポロっと発言するときには、ありがちなのではないかと思う。

 ここで出した考え方の人々すべてに配慮することは、正直無理だと思う。出来る限り配慮するならば、発言の意図を最初から言うことなのだが、それはそれで冗長になるし、くどい。逆に真意が伝わらないこともあるかも。キリがない。
 だから無理だと頭ではわかっているのだけど、上記の例で言えば「猫に失礼だ!」とか、なんなら「猫です。傷つきました」となることが怖いと思ってしまうのである。そんなつもりはなかったんだよ、と言ったところで、どう感じたかはその人にしかわからないし、こちらはただの加害者だからである。
 日ごろからハラスメントにも気をつけているのだけれど、「その人が嫌だと思ったらハラスメントが成立する」という前提がある。たとえば故意じゃなく相手を傷つけ、謝って許してもらえたとしても、相手に傷をつけたことに変わりはないので、つらいなと思う。

 人間だから、完璧にはなれない。どうやっても誰かとはぶつかるし、わかりあえないこともある。
 本当に人を傷つけたくないなら、誰にも影響したくないなら、究極のところは一言も発言せずに部屋に閉じこもっていればいい。
 でもそれもちょっと違う気がする。それが最善の選択肢とも思えない。もちろん、時には対症療法、応急処置としてそのようにすることで自分を守ることも必要かもしれないけれども。
 私は言葉を諦めたくないし、顔も知らない誰かへ私の言葉が届くことも望んでいるから、やっぱり言葉の発信も続けるのだろうと思う。

 できるだけポジティブでありたいと思う。
 ポジティブになれない自分を疎ましく思うこともある。
 常日頃から、言葉には敏感に気をつけているつもりなのに、言葉を持て余している自分が情けなく思えてしまう。
 深夜になると、最近の発言を思い返してあれは不適切だったんじゃないかとか、このようにとらえられていたらどうしようと不安になることがある。見ず知らずの人も、私によくしてくれる人も、誰も傷つけたくない。
 でもそう思うことこそ傲慢なのかもしれない。生きていたら仕方ないことなのだろう。
 ……と、このような感じで深夜の反省会は頭の中で堂々巡りになっているのである。

 実はこれに対する答えの一つは紫式部が既に出していて、私は過去にそれについての記事も書いたことがある。

 紫式部も、似たようなことで悩んだことがあるのかも、と思うだけでも多少気が軽くなるような気がする。同じ悩みを持つ仲間は、時を超えても心強い。
 もし、私と同じような悩みを持っている人がこれを読んでくれているなら、心で全力の握手しましょう。
 私もひとまずは心の整理をして、あまり怖がり過ぎず、自分に対しても厳しすぎず、ポジティブに生きていけるように努力しようと思う。

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