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【小説】引退

 ––ついにこの日が来てしまった。
 タオルに顔をうずめ、飛雄とびおはゆっくりと息を吸って、吐いた。ベンチに置いたシャトルが、ころりと転がる。

 惨敗だった。相手は自分よりずっと若い選手。経験も技術も勝っていたはずなのに、体が、自分の体じゃないみたいだった。

 去年左膝を故障したときに、いやな予感はしていたのだ。手術もリハビリもした。それで終わりのはずだった。しかし、今年の初めに右の靭帯を損傷した。ジャンプしたとき、無意識に左膝を庇うように右に重心をのせて着地していたのが、じわりじわりと右足に負担をかけていたらしかった。そこから半年かけてようやく試合に出られるようになったが––。
 もう限界なのは、自分が一番よくわかっていた。
 体だけじゃない、もう頑張れないと心が叫んでいた。

 高校の同期、羽田はねだ公彦きみひこ。去年故障したのは、羽田との試合だった。負けたくない思いが空回りして、無理をしたのが大きな要因だ。あの試合に勝てたら、それで終わりでもいい。そういう思いで試合に臨んでいた。
 それでも、羽田には届かなかった。

 羽田は身軽で、本当に背中に羽があるようだった。どこに打ち返しても、ひらりひらりとコートの中を飛び回り、シャトルを拾ってくる。少しでも甘いショットをしたら、正確で鋭いショットがこちらのコートに突き刺さる。そのときの羽田の顔。いつも明るく快活に笑う彼とは別人のような、鬼に出会ってしまったかのような、ぞっとする迫力があった。
 高校の試合では、彼に勝ったときもある。大学のときも負け越したが、勝った試合もあった。俺はこれからだと。これからきっと「あいつに完璧に勝った」、と言える試合をするのだと思ってここまで頑張ってきたけれど、

 もう、羽田には勝てない。

 その確信が、引退を決めたと言っても過言ではない。

 ロッカーからケータイを取り出して、連絡先をスクロールする。高校のとき以来連絡していなかった、その連絡先を表示して、しばらく見つめていた。その間にロッカールームからはどんどん人が減っていき、やがて飛雄一人になった。
 ブラインドの隙間から差し込む西日を見つめながら、ケータイを耳に当てる。

『はい! 羽田』

 スピーカーから聞こえる弾けるような声に、高校のときのミーティングの光景が一瞬頭をよぎった。

「あー……久しぶり」

『トビオー! ……うん、トビオだよな! 久しぶりじゃん。リアルに高校ぶりじゃ? やー、ケガ大丈夫?』

「あー……」

 故障のことを触れられて、言葉に詰まる。少しの沈黙の後、スッと短く息を吸った。

「引退、することにした」

『えっ!?』

 羽田の動揺がスピーカーからも伝わってきた。
––そうだろう、突然こんなことを聞かされたら俺だって何て言っていいかわからない。

『そうか……ひとまず、お疲れさま。よく考えての結論なんだよな』

「ああ、今日の負けでハッキリわかった。これ以上、コートに立つのは無理だ」

『俺はトビオの出した答えを尊重するよ! これからも何らかの形で競技に関わってくれたらいいなとは思うけど……』

 思っていたより、前向きに受け止めてくれたらしい。引き止められなかったことに少しの寂しさはあるものの、それもこちらの気持ちを汲んでのことなのだろう。羽田には、きっとすべてお見通しなのだ。

「そこはまだ何とも。でもこうして口にして少し、すっきりしたかもしれない」

『じゃあ、お疲れ様会もやらないとだな! そっちの監督さんは何て言ってるんだ? そっちで何かするなら、オレも参加させてもらおうかなあ』

「はは、監督にはまだ言ってない。婚約者にも言ってない。羽田に初めて言ったよ」

『えっ』

 その声は困惑の色を孕んでいて、飛雄は一瞬違和感を覚えた。

「……驚いたか」

『そりゃあ! 驚いた。でも、そんな大事なことを、なんでオレに?』

––なんでオレに?

 その一言に、飛雄は心臓が締め上げられるような感覚がした。
 なんで、と言うことは、羽田には心当たりがないのだ。それはつまり––羽田は飛雄のことを、飛雄が羽田を思うのと同じようには感じていなかったということだ。

 考えてみれば当たり前だった。こちらは高校の同期だということで、勝手に羽田をライバルだと思っていたけれど、向こうからしたら「ただ高校で一緒だった選手」というだけ。彼がライバルだと思う選手は他にいて、きっとたくさんいて、その中に飛雄はいない。その事実を、「なんでオレに?」というその短い一言にこの上なくハッキリと突き付けられた気がして、飛雄は天地がひっくり返るような衝撃を受けた。

「なんで…………って……」

『うん』

 自分の口角がひくっと嫌な感じに動くのが分かった。

「こ、高校の同期、だろ」
『……そっか』

 それ以外に言いようもなかった。結局のところ、羽田と飛雄の関係は、それだけなのだ。
 羽田はその返事に納得しきっていなかったようだったが、『また何か決まったら連絡して』と言って、会話はそれで終わりだった。

––ずっと追いかけてきたのは羽田の背中で、俺は追いつきもしなかったし、あいつは振り返りもしなかった。

 通じない電話を持ったまま、飛雄は乾いた笑いをもらし、やがて大声で笑いだした。バドミントンをやってきて、こんなに大声で笑ったのは、高校のとき以来かもしれなかった。

「はあ。すっきりした!」

 これで、なんの未練もなく辞められる。そう思うと、急に肩の荷が下りたような思いがした。
 傍らのシャトルを大きく上に放って、天井に当たって落ちたそれをポケットに入れる。飛雄は、振り返らずにロッカールームを後にした。

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