具体例で考える著作権
冒頭画像は、本稿参考図書からの引用である。その一部をネットで見ることもできる( イノベーションズアイ)。『知らなかったでは済まされない著作権の話』、堀越総明(ボングゥー特許商標事務所)の著作だ。
さて、我々の身の回りは「著作物」で溢れかえっている。写真しかり、テキストしかり、音声から動画に至るまで、著作物はインターネットを通じて、爆発的に増え、しかも拡散されていく。それらを勝手に利用することは、常に、著作権侵害のリスクを負うことになる。そんなことに「びくびく」することがないよう、一部の国では「フェアユース」という規定が設けられている。なぜなら、著作物とは、創作され、かつ利用されてこそ意味があるからだ。
日本は残念ながら、「フェアユース」の明文規定がない。ネット以前の時代の法律を、継ぎ接ぎしながら、無理くりに使っている。現在の法体系については、様々なサイトが解説してくれているので、ぜひ参照してみよう。
ここからは具体例で進めたい。著作物は(特許・商標などの知的財産と異なり)申請・審査などの手続きがない。一旦創作されれば、自動的に権利を手にできる。ゆえに、第三者がこれを侵害するとなったら、法律的には5つの「要件」すべてを満たす必要がある。
1)思想や感情で(個性が)表現された著作物である。
2)著作権の有効性(有効期限)が失われていない。
3)依拠性(誰か・何かの真似をしたこと)が認められる。
4)類似性(そこに他の作品の本質的な特徴)が感じられる。
5)権利を有さずに(他人の著作物を)使っている。
そして実際の判断は、裁判に委ねられる。やや極端に言えば、(日本の法的判断では)「侵害」行為は頻繁に成立するが、その被害の認定で言うと、おそらく裁判費用ほども大きくないだろう。現に、わさわさ訴える人が少ない。実は、フェアユースがなくても、(状況としては)然るべきところに落ち着いているように見えるのだ。ゆえに、我々は過度に「びくびく」する必要はない。
まぁ、そうは言っても、知らなかったで済まされない事例もあるため、それを本稿の参考図書で確認しておこう。
■ キャラクター(イラスト)を買い取ったにも関わらず、原作者(著作者)が勝手な商売を始めた。それはなぜか。
彦根の人気キャラ「ひこにゃん」は、原作者の3つのイラストがもとになっている。これを市が買い取ったはずだったが、キャラの性格が変わっていくにつれ、原作者は不快になり、類似のキャラを創作し、商売を始めてしまった。それが両者の関係をこじらせる。
そもそも両者は、互いに契約を交わし、その著作権は市に譲渡されていた。しかし、著作権には多数の権利が付随している。たとえば、著作権法27条(翻案権)と28条(二次創作権)は、特別に提示(特掲)されていなければ、同様に譲渡されたものと推定されている。これが覆ったのは、大阪高裁の判決だった。著作権の譲渡について、抽象的に記載されたのみの契約書では「不十分」、つまり、一部の権利は元の権利者に戻るとされたのだ。
ゆるキャラの勝ち組だった「ひこにゃん」は、両者の対立によって苦戦し、気づけば、熊本の「くまモン」に圧倒的な差をつけられてしまった。著作権法とは、キャラクター(の権利)を保護するする法律ではない。あくまで個々の表現物、たとえば具体的な一枚一枚の絵の権利を論じているものなので、キャラクター・ビジネスにおいては、相応の活用範囲を決めて、権利の所在を明示しておかなければならない。
■ 会社の業務で制作した著作物は、会社に帰属する。
特許の「職務発明」と同じく、著作権にも「職務著作」がある。退職時に、自身が手掛けた文章や写真、映像や図面、イラストなどは(原則、または通常)すべて会社に帰属する、と考えていい。
有名な裁判事例(RGBアドベンチャー事件;最判平成15年4月11日)がある。雇用関係にすらなかった臨時のデザイナーの作品が、職務著作にあたるか否かを争ったのだ。最高裁は、その個人が「法人等の指揮監督下において労務を提供するという実態にあり、法人等がその者に対して支払う金銭が労務提供の対価である」と総合的に評価し、実質上の雇用関係にあたると判断した。職務著作は、それだけ、法人有利と判断されている。特許の職務発明とは混同しないように。
■ 職場の中で、人気キャラクターを勝手に使ったり、新聞を回し読みするのはアウト。
よく言われている話だが、社内資料と言えど、他人の著作物を勝手に使うことは許されない。また、新聞の回し読みも同じだ。職場は「私的使用」にあたらないのだ。ただ、新聞や雑誌の一部の記事を、社員に共有することは、おそらく今も、職場で普通に行われていることだろう。
過去の判例(平成 19年 (ワ) 15231号)によると、社内サーバーにアップした場合の使用人数と、権利者みずからが販売した場合の単価とを掛け合わせ、損害額の基礎としている。閲覧数や配信数が限定されている紙の回し読みと比べると、金額は桁違いになる。
ちなみに、(検討)資料への著作物の使用はどうだろう。これは著作権法の改正によって「適法」となった。ただし、その著作物を正式に(許諾を受けて)利用しようとする検討段階においてのみの、「適法」である。資料の体裁のためだけに使用されるイラストは、著作権への配慮が必要になる。
■ 著作権の有効期間が切れるのは、著作者死亡の70年後。では映画作品は?
著作者の死後70年。これが保護期間と定められている。他方、映画については、公表後70年だ。映画とは、膨大な著作権を束にしてできあがった作品だ。原作や脚本、音楽までいくつもの著作物が関わっている。通常、映画の著作権は、著作者である監督などが共有するのではなく、法律の定めによって映画製作者(映画会社)に帰属する。したがって、権利者の寿命を用いて数えることができないため、「公表後」となっている。なお、映画は、原作や脚本を利用した二次的著作物と扱われるため、権利関係を事前に処理しておくことが必要だ。
「映画」とは、Youtubeの映像作品を含む。何らかのカタチで(表現形態が)固定されていて、初めて保護ができる。また「創作」された物でなければならないため、ライブ放送の内容や監視カメラの映像は対象外だ。
■ 絵画を買って所有権は移転するが、著作権は移らない。では、さらに転売する場合、絵画の写真を(販売用に)公開できるか。
自分の買った絵画だからと言って、その著作権を自由に利用することはできない。しかし、その絵画を再度売り出すときには、どうしても画像・動画などで(絵画を)示さなければならない。このときの著作権法は次のように示している。これは平成21年の法改正で導入された文言だ。
同上の条文には「政令で定める」とある。これは「著作権法施行令」の第7条の2を指している。美術品をネット上で取引するための規定だ。
ちなみに、これも「著作権(著作物)が自由に使える」制限規定のひとつとなる。権利制限規定として細かく決めているのが、日本の特徴だ。望ましくは、フェアユースとして概括的に決めている方が望ましいものの、日本にはまだ、そのフェアユースがない。
■ 写真を撮ったのは会社。そこに映っているのは有名人。この写真を会社は使える?
有名人(の顔など)にはパブリシティ権が認められており、商業利用にあたっては、本人と(その対価などを)確認しなければならない。みずからの肖像や氏名を、第三者に利用させるその権利について、法律はどこにも定めていないが、判例で認められた。なお、肖像権とは、一般人の顔などを勝手に撮影されたり、公開されたくない、という権利。
これが著作権の話題になるのは、たとえば画像の著作物が別にあったとしても、そこに映り込んでいる人(肖像)の権利を無視できないからだ。特に、それが、経済的価値をもつ場合、無形財産のひとつだと言える。
■ パブリック・ビューイングという権利。あまり知られていないが、これも著作権?
著作権とは、とにかく「複雑怪奇」の印象を受けてしまう。それもそのはず、著作物の複製にとどまらない。上演、演奏、上映、口述など、どの表現形態を取ったとしても、他人の著作権を勝手に表現すれば、それは侵害だ。たとえば、著作物を勝手に朗読したり、脚本として演劇にしてみたり、もちろん映像作品の原作にしたりしても、著作者に無断では行えない。
昔は、小さなラーメン屋で、小さなテレビが当たり前のように掛けてあった。今は、バーなどで、大きなスクリーンが掛けられ、スポーツ中継が流れている風景を見かける。両者とも、特に、顧客から観戦のための料金を徴収していなければ、著作権法38条の3項にあたる。
なお、使われている設備が(通常の家庭用テレビとは異なり)特殊だった場合、著作権利用のライセンスが必要となる。
■ 短いキャッチコピーに著作権はない、と言われる。では、俳句などの作品はどうか?
創作性を認められるコピーは非常に少ない。なぜなら、「思想又は感情」を創作的に表現するために、少ない語数の言葉では表現しきれない、あるいはありふれた語彙の選択にとどまる、と考えられるから。たとえば、英語教材の販売文句を連呼して、それが有名になったとしても、「音楽を聞くように英語を聞き流すだけ 英語がどんどん好きになる」「ある日突然,英語が口から飛び出した」などに、著作性はない。これは裁判所の判決だ。
それでも、交通標語で認められた作品はある。「ボク安心 ママの膝より チャイルドシート」。五七五のリズムで、作者の思想を表している良作だ。思想や感情がこもっている点では素晴らしいが、形式的には難しい。実際、裁判では、電通の「ママの胸よりチャイルドシート」のスローガンが、元の作品を侵害していると訴えていた。
①五七五と七五の語数の違いや、
②交通標語としての本件での言語の選択の幅、さらに
③膝と胸の違いは、子供の対象年齢も変わってくる、など。
模倣したか否か以前に、外形的にはかなり違ってくるし、そもそもチャイルドシートの啓発でやりえる表現幅は大きくない。そんな理由で、著作性は認められつつ、侵害主張は退けられた。
■ 屋外にあったアート作品を撮影して、商売に利用しても大丈夫?
著作権のある作品をわざわざ屋外に展示し、多くの人の目に触れるようにしてあるものは、利用してもらって構わない、その意思表示である。法律でも、明確にこれを認めている。
屋外に「恒常的に」設置されてあることと、臨時の展示会で掲示されている場合とでは異なることに注意しよう。また、その作品を「複製」や撮影して販売することは禁止されている。販売目的と自由利用も(著作権法では)異なる扱いを受けることになる。
■ イベント用に制作されたエンブレムが、他のデザイナーの既存作品に似てしまった場合、どうなる?
著作権法は、「似ている」ことをもって侵害とはしていない。あくまでも、複製が禁止されているだけで、作品として(同一に見えて)紛らわしいレベルというだけでは、必ずしも侵害にならない。だから、まずは、故意(の模倣)か否かという、「依拠性」の判定がなされる。依拠(参考にしたという事実)があれば、元の著作物の翻案権(二次著作物の制作を認める権利)の侵害となる。
もし偶然似てしまった場合、著作権に紐づく様々な権利の侵害には当たらない。ただし、東京オリンピックのロゴ問題のときのように、本人の過去の作品の様々な「パクリ」が見つかってしまった場合、これはもはや信用問題となってしまう。法律上、セーフか否かではない。その問題の当事者だったデザイナーは、権利侵害で訴えられなかったようだが、世間(メディア)の断罪を受けてしまった。
■ 著作権に「消尽」はあるか。お金を払って買ったCDを中古で販売できる理屈は何か?
知的財産には「消尽」という概念がある。たとえば、特許発明の実施品が一度販売されると、その権利は「消尽」されたことになる。その実施品を第三者に販売する場合、知財の実施料があらたに課せられることはない(二重利得はさせない)。著作権も同様である。たとえば、音楽のCDを買うと、そのとき、買い手は、CDの値段の中に著作料を含めて支払っている。このCDを中古で売りさばこうとしても、著作権侵害にはならない。なぜなら、権利がすでに消尽しているからだ。条文には出てこない考え方だ。
譲渡権は(著作権法26条の2第2項により)一度譲渡されると、もう一度適用することはできない。つまり譲渡権は「消尽」したと理解される。他方、映画については、頒布権(著作権法26条第2項)に沿って判断されるため、「消尽」の考え方はない。
ここで問題になるのはレンタル事業である。まず、映画を劇場に配給する場合は、複製品の数次にわたる「譲渡・貸与・提示」が前提となっている。これを「頒布」と言い、映画のみに認められている。貸本やDVDレンタルなどの事業者は、複数の顧客に利用させるものだが、「貸与権」の呼称になり、これも消尽の規定はない。
ついでに、デジタル著作物の場合に触れる。上記「譲渡権」の条文では有体物が大前提となっている。ダウンロード作品のような無体物には適用されない。したがって、「公衆送信権」をもって判断され、許諾を得ない「複製」は固く禁止されている。著作権法全体で考えれば、無体物として扱うことが基本なので、消尽の規定は出てこない。有体物に対してのみ、わざわざ、複数回の「適用しない」と表現し、これを消尽としている。
■ WEBデザインの権利を守るには、どのような手続きが必要か?著作権か?あるいは他の権利を用いるのか?
WEBの、あるいはアプリのデザインは、そのビジネスを大きく左右する。しかし、それを著作権で守るのは至難の業だ。まず、レイアウトや配色は、著作権の対象にはならない。またWEBの常識的、あるいは「ありふれた」デザイン・パターンの場合は、著作権性すら認められない。よってWEBデザインには(偽物サイトは論外として)パクリが横行することになる。
ただし、意匠法が改正され、WEBのレイアウト・デザインが保護される可能性も出てきた。意匠では、公開前の事前申請が必要であり、審査を受けたのち権利化される。
■ 作者と出版社が話し合い、本のタイトルでもめた場合、その著作権はどう判定される?
一般的に、本のタイトルは、極めて短い表現のため、著作権はないとされている。著作性がなければ、その財産権や人格権もないと考えていいのだろうか。著作者人格権とは、作者の名誉や思い入れを保護する権利だ。たとえば、作者の(当該作品を)公表したくないとの思いは尊重される。作者としての氏名表示の意思も認められる。また作品を勝手に修正されてしまうことに対して、反対(要求)できる、これも作者の権利である。
しかし、世の中の契約書では、「著作者人格権を行使しない」の文言をよく見かける。自分が制作を担った著作物を発注者・顧客に利用させる場合、相手からこれを求められるのだ。
著作権法には、多くの例外規定が設けられており、それは著作権法の第五款全体に定められている。この制限があったとしても、著作者人格権は認められる、と(第50条に)追記がある。具体的には、私的複製は認めるが、勝手に作者を貶めるような改変はやめなさい、という感じだ。なお「款」とは、法律の章立ての中の、節があって、その中が「款」で区分けされている。
ただ、そもそも著作権がない本のタイトルに、なぜ人格権の問題が挙がるのだろう。次のように理解しよう。作品本文とタイトルとは不可分である。その一部を勝手に変えられてしまっては、著作物の同一性保持が保たれない。事実上、出版社は、勝手なタイトル変更ができなくなり、また作品の校正(主に誤字脱字、表記のゆれ、不適切な文言など)にも支障をきたす。それゆえ、人格権を行使しないなどの文言で約定を交わし、作者と出版社との間で役割分担を行うのが通例だ。
以上、参考図書から拾った案件だけでも、「意外」なものがたくさんある。法律は、人々を拘束するルールである。予見不可能な(混乱した)ルールは、国民の間にトラブルを生じさせてしまう。ゆえに、著作権法はもっと分かりやすい体系に作り直すべきだろう。さもなければ、ネット時代を活きる我々は「びくびく」した状態を続けなければならなくなるからだ。
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