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目的のない学習の重要性を語りたい

物事には目的が必要とある。勿論、何かを形にする上で目的というものが重要な役割を果たすということには私も同感だ。

しかし、現代は目的ありきで行動することがあまりにも求められすぎているように感じる。近代において視点を大きくひっくり返すような大発見が行われていないのと決して無関係でないと考えた。

なぜ、現代において大発見がないと言い切れるか、それは理論物理学や純粋数学の理論の発展の停滞があるからだ。VR、量子コンピュータ、人工知能、これらは何十年も昔から考えられて来たものに過ぎない。理論としてはずっと昔から存在していた訳で近年になってようやく実用の目処が立ってきただけに過ぎない。手塚治虫氏の著書を読めばずっと昔からあったアイデアであることはすぐに分かることだろう。

現代でなぜパラダイムシフトが起こりづらくなったか、憶測ではあるが、新自由主義が強く関与してると考える。資本主義社会において、成果は重要である、成果が見込めない理論や基礎研究にかまけている予算も人員も極めて限られているのである。その結果、研究者たちは成果がすぐに出るような研究に専念せざる得なくなり、腰を据えて理論を探求する余裕がなくなったのである。

目的ありきの学びというのは、その目的に沿った情報以外を無意識に切り捨ててしまう学びでもある。目的にとらわれてしまうということは発想の範囲も目的とその周縁に限られるものとなってしまう。しかし、視点を切り替えるような大発見には一見無関係な分野との接続が重要である。事実、歴代の天才たちも一つの分野に特化して何かを生み出したのではなく、その分野とそれに関連する複数の分野とのつながりを通して画期的な発見をした場合のほうが多いのである。

新たな発見につなげたいのだとしたら、あえて具体的な目的など設けずに節操なしに好奇心が赴くがままに学ぶのもありだろう。具体的な目的をなくすことによって概念や物事を純粋な眼で眺めることができる。それによって思いも寄らない発見につながる確率も上がることは明らかだ。

勿論、リスクは有る、これは賭けとしてはあまりにも分が悪い、まあ大抵は上手く行かないだろう。しかし、そんなことを恐れてしまえば新たな発見など成し得ないと考える。冷静に考えてほしい、特定の分野に特化するということはその分野に跳梁跋扈する世界中の天才たちと真正面で勝負することを意味するわけでもある。私にとってはそのことのほうが遥かに怖い。

しかし、複数の分野を股に掛けて物事を学べば、自分と知識の範囲が共通している人の存在確率は大幅に減るわけである。専門特化することによって個性が備わると一般的に言われているが、むしろ専門特化しないことで備わる個性も存在するわけである。したがって専門にとらわれず自由に学ぶことを私はこれからも大切にしていきたい。

この記事を作るときも私の心が赴くがままに書いている。自由に書くことで自分の心の素直な声を可視化できる、それはとっても素晴らしく尊いことだ。目的に囚われた現代に生きる我々だからこそ目的に囚われないことそのものが個性になると私は信じている。

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