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ギフテッドについて

世の中には頻繁に誤用されている言葉が数多くある、ギフテッドもその内の1つだろう。

ギフテッドは天才や高IQと混同されがちだ、少しでも誤解を解くためにこの記事では僕のギフテッド観について述べていきたいと思う。

1993年、アメリカ教育省は、「ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した才能を持つ子供のことである。」と定義した。(Wikipediaのギフテッドのページより引用)

IQ130以上だとかそういった定義も頻繁に見られたが、知能検査では本質的な創造性や才能を見抜けないという意見もあり、今現在のアメリカではIQを基にしたギフテッド判別は撤回されつつある。

ギフテッドの特徴はなんといっても独創性、創造性、論理性、抽象性、感性、共感性などの何かしらの性質で非凡なる能力を持っており、かつOE(過度激動)が見られることにある。

単なる高IQとは違い、上記の性質のいずれかを有していて本質的に賢い人達、それがギフテッドである(ここで賢さの定義についてはガートナーの多元知能理論を参照されたし)。

プロフィールを見て分かるように、僕はTwitterをやっている。自分のフォロワーにもギフテッドの概念に該当しそうな人が多々見られたので、その人たちと接し続けた上での知見を以下に書き連ねていく。

ギフテッドの特徴としてよく挙げられるのはCPI(Cognitive Proficiency Index;認知熟達度指標)が、GAI(General Ability Index;一般知的能力指標)に対して優位に高い事である。CPIは、ワーキングメモリや処理速度を代表とする作業処理能力の高さを示し、GAIは言語理解や知覚推理を代表とする結晶性知能や思考力(理解力ともいう)の高さを示す。

僕個人としてもその傾向は確かにみられると感じるし、特に処理速度が優位に低い人が数多く見られる。処理速度とは単純な課題を素早く熟す能力のことであり、学習効率や慣れや実行能力を司る指標である。これが低いことによって、慣れが生じにくく反復学習が苦手になったり、実行力に難が出てしまうようだ。

処理速度は多くのギフテッドや発達障害の人たちにとっての課題でもあり、社会適合に最も強い相関がみられる指標でもあるらしい。確かにそうだ、学校教育というのはドリルや百ます計算を初めとする反復学習が多いし、一般的な仕事はどれも高度にマニュアル化されており、高度な思考力を要する業務というのはごく少数に留まる。

また、感性が大きく異なるため、周囲の同年代の人たちとのコミュニケーションに支障をきたしやすい傾向もみられる。多様性を受け入れ難い日本型組織にというのはギフテッドにとってはあまりに窮屈なのである。

次にOEについてだ、感覚過敏とも深いつながりを持つ概念である。OEとは端的に言うと考えすぎて夜眠れなくなったり、精神的に不安定になったり、感受性が強すぎて直ぐに感化され泣いてしまったり、スーツを着るだけで苦痛を感じるほどに感覚が繊細な状態を指す。これが創造性の源泉であり、かつその代償とも言われている。

僕のフォロワーには繊細な人が少なくない。この情報量に満ち溢れた世の中というのは繊細な人たちにとってはあまりに生き辛いのだろう。SNSは暗いニュースや議論で満ち溢れており、社会は根性論やブラック労働など非人道的行為に満ち溢れている。こんな世の中に際立った感受性を持つ人たちが置かれたらどうなるだろうか、その結果が精神病であったり発達障害と診断される人たちの急増であるのだと考える。

繊細な感性は芸術に昇華されることもある、米津玄師や羽生結弦もそのタイプなのだろう。僕の弟(12歳)も繊細な感性を持っていて、毎年の様に芸術系のコンテストで賞を受賞しているが、彼の社会に対する視線にはいつも感銘を受けるばかりである(日本政府は危機管理がなってない、官僚は金を払いたくないだけなど)。弟は数値上のIQは平凡であるものの、感性に関してはギフテッドネスを強く感じされられる(兄バカ)。

芸術系のギフテッドは繊細であり、それ故に周囲に馴染めなかったり精神を病んでしまうことが少なくない。才能とはリスクと隣り合わせにあるものなのかもしれない。

ギフテッドについて語りたいことは沢山あるが、語りたいことがありすぎて記事が長くなりすぎてしまうため、ここで一区切りつけることとする。

僕は正直ギフテッドなる存在に強いあこがれと共に、劣等感を抱いていた。特に知的ギフテッドなる存在に強いあこがれを抱いていた。これは最もギフテッドの典型的イメージに近い存在でもある。簡単に言うと学問において卓越した才能を示す人たちのことである。

数学者、物理学者、プログラマーを代表とする知的ギフテッドに強くあこがれを抱いていたし、一歩でも彼/彼女らに近づくために数学、物理学、哲学を必死に勉強したりもした。

しかし、僕は論理的に物を考えたり素早く物事を理解するのがあまり得意ではなかった。特に理系の研究というのは僕の頭には苦しいものであった。しかし、ないものねだりをしても仕方がないし自分にしかないなにかを見出せればいいなと思う。

自然科学の理論を僕が見つけ出す必要はない。なぜならば理論というのはだれが見つけようが同じであるからだ。

以上、余談でした。

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