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知的好奇心は恐怖心の裏返しなんだよ

どうも、お久しぶりです。今回は作文の練習を兼ねてnoteを書いていきたいと思います。

知的好奇心という言葉がありますが、この言葉は一般的に様々な知識、経験をしたがる特性と結びついており、自然と怖いもの知らずといった意味合いが含蓄されているように思えます。

確かに僕は未知なる場所に出かけたり新しい事に手を出すことに対する恐怖心が人一倍薄いと自覚しております。しかし、知的好奇心は意外にも恐怖心と密接に関係しているんだよということをこの記事では論じて行きたいと思います。

知的好奇心の源泉は恐怖心に他ならない

知的好奇心旺盛な人はなぜ沢山学ぼうとするのか、それは知ることが楽しいからではなく知らないことが怖いからである。考えてほしい、知ることが楽しいのならば自分の興味に付き従って行動すればそれで満たされてしまうのではなかろうか。知らないことが怖いからこそ自分が苦手としている分野、楽しくない分野に対しても知識を吸収しようという姿勢が現れるのである。

私は知識の漏れがとても怖い、自分が想像も出来ない世界、視野の狭さがとにかく怖い。故にネット上の議論で自分にない視点を繰り広げている知識人(特に社会科学系)を見る度に激しい自己嫌悪に襲われるのである。こんなことも考慮できなかった自分の至らなさがとにかく悔しいのだ。

例えば主義思想は人それぞれであり、無理に押し付けるべきものではないと言った考えがある。私は基本それを念頭において物事を考えていたのだが、それは自然主義的誤謬であり望ましくない現状を変えるために運動しているのだというのを聞いたとき、雷に打たれたかのような衝撃が全身を駆け巡ったのだ。

また、自分なりに調べてみると「人それぞれ」といった言葉には相対主義的な価値観が潜んでおり、結論を出したり思索を巡らせることに対する逃避である的なネガティブな意味合いが含まれていることを知った。つまり、私は無意識のうちにこの様な愚かな価値観を抱いていたというわけだ。

自分が知らない、想像できないということは自分が無知であること、浅慮であることに直結する、それ故に恐ろしいのである。自分が軽率に物を考えることで他者や世界に影響を及ぼしてしまうかもしれない、そういう意味でも自分が無知であることは恐ろしいのである。

故に自分の無知を埋め合わせるために様々な知識や知見を追い求める訳である。

知識がなくても動ける人との違い

しかし、世の中には知識量がなくても仕事したり何かを生み出せる人がいる。いいや、むしろそうである人の方が多いだろう。私みたいに知識がないとポンコツになり果ててしまう人の方が少数派なのだ。

ところで知識がなくても動ける人は何が優れているのか、私の推測に過ぎないが短時間で最大公約数的な本質を抽出したり或いはある作業において必要最小限な知識をピンポイントで抜き出したり、または身体感覚的な経験から学ぶ能力が高いからだと考える。

最大公約数的な本質とは学校の先生が教える内容に近い、これを掴む能力が高ければ勉強においては有利だし、基本優等生となるだろう。間違った解釈をすることが滅多にないため指導能力も抜群であるはずだ、ちなみに私は歪んだ解釈をしてしまうことに定評がある。

必要最小限の知識を抜き出す能力の根底にあるのは自分の経験と今の自分を照合する能力と上からの意図を瞬時にくみ取る能力である、これが高い人は事務作業に優れる事だろう、ちなみに私がとっても苦手としている能力でもある。

身体感覚的に物事を吸収するスキルが高い人は職人さん、スポーツ選手に最適だ、学ぶよりも直接経験することで物事を身に着けるのが得意だ。故に理論が分からなくてもものづくり出来るし、仕事でも有能だ、ちなみに私はそれも苦手だし面接は数を熟せと言われても理解不能である。

知識がなくても推測することで規則性を導き出せる人、空間認識能力で図形を鮮明にイメージ出来る人は数学や語学で困らないだろう。しかし、私にとってそれに身を任せてしまうのは恐ろしい行為に感じられてしまう。なぜならばそれによって自己流の解釈に至ってしまい、却って回り道になってしまう可能性があるからだ。

だから極力客観的な知識を身に着けるために私は勉強する。しかし、解釈に関しては基本自己流である。客観的な情報を基に自己流に解釈する、この一連の操作によって瑕疵がなく、独創的なアイデアに繋がると信じているためである。

知識を取捨選択しないからこその独創性

確かに必要な知識のみに専念したほうが色々と都合がいいのは明白である。しかし知識の範囲を限定しないからこそ独創的な視点に繋がるのではないだろうか。

例えば現代代数学、一見抽象的で実用性に乏しい分野に思えるが実は思考の基盤としては非常に重要な分野である。ある集合内での演算にみられる共通点から本質を探る(まだ知識が浅いので間違ってたらすみません)というのが代数学の肝であるが、これは数字のみならず言語に対しても適用できそうである。

一見異なった物事であっても物事どうしの関係性から浮かび上がる共通点によって実際には共通しているということが分かる。これは現代の細分化されてしまった知識に対して強大なる力を発揮するのではないだろうか。

私の発言はこのようにすぐに飛躍してしまう傾向にある。しかし、既存の分野に立ちはだかる閉塞感を打ち破るのは多分野に渡る膨大な知とその接続にあるのではなかろうか。

知識を絞ってしまうとその知識の枠組みでしか物事を考えられなくなってしまう。自分の専門性に固執するあまり他分野からの意見に対して専門家でもないやつが口出しするなと言い放ってしまう専門家が分かりやすい例である。

だからこそ私はありとあらゆる分野の知識を無秩序に取り入れていきたいものである。

結論

・知的好奇心旺盛な人は自分が知らないことを恐れる人でもある

・知的好奇心旺盛な人は最大公約数的な解や自分の想像のみに任せた解釈を嫌がる

・情報を取捨選択しないからこそオリジナリティを発揮できる(かも?)

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