身内の死は慣れないものだ

2月12日。

祖父が亡くなった。

一昨年に祖母が亡くなり、後を追うように。


色々あり、今日は火葬だけになった。

正直、まだ実感が湧いていない。

だから、忘れないうちに今日は祖父のことをまとめる。


祖父の人となり


祖父母は床屋をやっていて、特に祖父は職人肌。


プライドが高いというか頑固というか、すごく

散髪を細かくやっていた。

そして箸の使い方、食べ方などにとても厳しい人

でもあった。


ゲンコツこそなかったのですが、「コラっ!」と

よく叱られた。


それでも散歩に出かけて、アイスやおもちゃを

買ってくれる優しい一面もあった。


釣りも大好きで、釣った魚をさばいて食べさせて

くれたこともあった。


幼少期の僕にとって、祖母と比べると苦手な印象では

あったが、優しい人だったことはよく覚えている。


祖父の異変


大学を卒業し、社会人になった頃、少しずつ祖父は

おかしくなっていった。

記憶が曖昧になり、ぼーっとすることが増えた。


老いから来るものだろうとも思った。

でも明らかに変だ。

そう思い、親と話し合って祖父を病院へ。

そして、病院で医者に告げられたのは、認知症。

レビー小体型認知症、だ。

進行を遅らせることはできるけど、完全に治すこと

はできないと言われた。


徐々におかしくなる祖父。

「誰かが家に上がり込んだ。ウチの金を狙っている」

夜、目を覚まし、トンカチを持って玄関で仁王立ち。


祖母を叩き起こし「お前もこれを持て。襲われたら

これで殴るんだ」と工具を渡されたそう。


何度か僕も泊まって様子を見ていたが、無意識に

目を覚まして暴走するさまは、祖母にとって

想像を絶する辛さだったと思う。


そして、祖母が亡くなった日。

祖父はトイレを探して館内をさまよっていた。


トイレを済ませ、手を引いて、火葬の部屋へと移動。

最後のお別れをする時も、これから何が行われるか

分かっていないような表情だった。

残酷なことだ。

長年連れ添った人の死が理解できないのだから。

というより、連れ添ったという記憶すら曖昧なんて。


その後、認知症が進み、一人で生活できないほどに

なったため施設に入った。

時折両親が訪れて一緒に映る祖父は、あさっての

方向を向き、口を開きっぱなしでピースサインを

していた。


うつろな意識の中で、元気にしているんだなと

安心してLINEを返し、スマホを閉じました。


それが後悔に変わることも知らずに。


祖父との別れ


その日は突然だった。

いつものように、お昼のラジオ番組を聴き始めよう

とした時に親から連絡。

「おじいちゃんが...」

先述の通り、正直、実感が湧かなかった。

すぐさま地元へ。

祖父は施設にいて会えず、実家で一泊。


そして翌日。

祖父とは、火葬場で会うことになった。

誰一人として亡骸に触れることも出来ずに。


棺を開けた時。

フィルム越し、祖父はあの時の写真のように上を向き

マスクで顔が覆われた状態だった。

ほとんど顔は見えなかった。


母はとても泣いていた。

父も涙を流していた。


僕はこらえた。

辛い。

悲しい。

でも、こらえた。

母の背中をさすった。


僕は長男だ。

普段おちゃらけた人間だけど、こんな時こそ家族の

支えにならなければならない。


「じーちゃん、じゃあね」

いつも「じーさん」と呼んでいた僕は、かつての

呼び方でなんとか言葉を絞り出して、しっかりと

最後の姿を目に焼き付けてお別れをした。


奇しくもこの言葉は、祖母が亡くなった時、母が

祖母にかけた言葉と同じだった。


ほとんと薬を服用してなかったためか、祖父の

お骨はとてもしっかりしていた。

亡くなってもなお、力強さを見せてくれたと思う。


後悔


今思えば、こっちに帰ってきた時に会うチャンスは

何度もあった。


僕のことを覚えてなくたっていい。

忘れてたっていい。

なぜ「また」と、後回しにしていたのか。

今はそれが何よりの心残り。


母は僕が幼い頃に弟を亡くし、そして、両親を

亡くした。

旧姓の家族はみんないなくなってしまった。


何を今さら、と思うかもしれないが、僕に出来る

ことはなんでもしていこうと思う。


親孝行はできる時に必ずする。

これは僕の中の約束事にしようと思う。

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