日常の崇拝

日常、生活、普通。

この世には特別な地位を与えられた言葉がたくさんある。

彼等は定義を問われない。何も持たない。地位を持つほど手には何も抱えなくなる様に、日常語彙の関連施設にフリーゲートで出入りする様はさながら神与生抜の特権階級だ。

何も持たないが故に何人にも咎められない。無色神性。生まれついての別世界人。

そんな奴らを引き摺り殺す。


日常、という言葉。
それはすべてを肯定し、すべてを含み、すべてになり、全てである。
疑いの目を向けたのは感謝からだった。
感謝、やめてみた。

感謝しろ、感謝しよう、感謝しなさい。

嫌だった。から、やめてみた。

親?食べ物?家族?妹?こづかい?机?テレビ?スマホ?ネット?動画?車?友達?命?しらす?肉?文化?世界?インド?労働?苦労?靴?歩く?本?地面?信徒?おトク?スタンプ?ポイント?歩く?歩く?歩く?

色?


におい?


ねつ?




何もなかった。
まずは意味。最初に消えた。
思考も消えた。意味ないからだ。
自覚も消えた。自然と無為になった。
うすい色だけが見えた。
それでも、色があった。

こうして、日常は日常ではなくなった。
2024年は最後のページではなかった。
そう信じたかったものが、目の前でページが開かれた。
僕らは1のページであり、次にも1のページがあった。
他のページには最高と最悪があり、つまりはどれも同じに見えた。

本には終わりもなく、なんか始まりもなかった。

日常の崇拝だった。

僕らは今に感謝し、今に満足していた。

そうだとすら思うこともなく、そうだとしか思えていなかった。

そうして日常が終わり、継ぐ間に日常が始まったのだった、また。