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spiral note

メモを取り始めたのは、確か6年前。
きっかけは全然おもしろくない本だったけど、だけれども影響されてメモ帳と4色ボールペンをすぐに買った。
定規でタテ線を引いた。律儀に色分けをした。愚直に抽象化をしてみた…そして、めんどくさくなってやめた。
それから、なぜだか知らないが、メモ帳がかばんから外されることはなくなった。いちばん外の取り出しやすい場所やパーカーのポケットにとりあえずつっこんだ。誰かの話を聞くときは目や口なんて見もせずにただひたすらにボールペンを走らせた。紙に書いてるほうが、聴きながら出してるほうが、なぜだか理解しやすかった。
外でも、椅子でも、歩きながらでも。話を聞くとき、暇なとき。気になったことを、嫌なことを、とりあえず一番近いとこのソレに書いて、書いた。
そのせいで今でも字は汚いままだ。
生活は変わった。様子も変わった。変えたり変えなかったり変わらなかったりしたことだらけだ。いっぱい書く月、使わない月。なくなる日もあり、使い切ろうと無理する日、他人の感情で用紙を埋めた日もあった。
ずっとずっと、同じメモ帳を使い続けたらしい。そうなのか。実感はない。だが、取り得る選択肢は常にそれしかなかったらしかったから。

maruman, spiral note.

気づけば、これしか使ってない。もちろん、店に売ってたやつは全部試したが、これしかなかった。
なんだろう。いいとか、悪いとか、そういうことではないらしい。他にないのだ。しかも不可もない。探してもない。唯一その事実のみで使い続けている。
どこがいいのか。その説明には、おそらく僕はしたくもない雑言をそれ以外のあらゆる同カテゴリに行うことになってしまう。忍びないので差し支える。
spiral note. スパイラルなのだ。螺旋を描くひとすじのくろがね。美しい、だろう?そう、それ以外のダブルリングとやらに比べるとね。
スパイラルだ。だから、メモを取るために開いたページを手に持つ、書いた、仕舞おうとする、まさにその時。表紙と背表紙が螺旋の理に従って異なる場所を占めることとなる。つまり、すぐにわかる、どこから閉じればいいのか。
メモ帳というものは、気づいたら手の中にあるものであるべきで、そしていつのまにか仕舞われているものでもあるのに、それをできないものなどまず考慮に値しない。そうだろう?
故に完全にフラットだ。180°どころか、360°完全に開く。紙が曲がる嫌な感触など一切与えない。紙を書ききった、スペースがない。そんな時はすぐ裏返す。次の危機、迷わず裏から紙を手繰る。そこに微塵も擦る音はしない。
机に置いて置く。勝手に閉じない、反らない、開かない。メモは道具なのだから、不意に反撃などされて為るか?否!
ペンが入る。副次的な効果に思えるだろうか。否々々、これを知ってしまった者はきっと、リングのないメモを使う気がしなくなるだろう。ボールペンのクリップ、それが入り固定されるのだ。かばんで、ズボンで、ポケットで。メモとペンが分たれる心配がこの世から消え去る。
JETSTREAM 4-color Ballpoint Pen. 彼との相性はまさしく比翼連理の如し。
B罫だ。メモ帳に大きな字を書くやつなどいないだろう。これでいい。
画一的だ。何を買っても、どこで買っても同じものだ。この世の中から消える心配はない。Least Concern.
安い。3冊199円。セット販売だと気に入らない色が入ってしまう?いいのだ、それで。ままならないところすらもはや愛おしい。

あの日、気まぐれでメモを取り始めた、取り始めてしまった日から、僕の苦悩は始まった。世界を見る、認識する、視る、観察する、観る。
知る、書く、よって、苦しむ。書かなければ、知らなければ、始めなければ。苦しまなくてよかったはずの、観なくてよかったはずの自己自身。
自分を知って、自分で書いて、やり直すことを続けさせられた。全て、全部、メモのせいだろう。こんなことになるなんて、なんてね。
いまさら言ったところで白痴の自分には戻れないが、それでもきっと、メモはこれからも武器のままで在り続けるのだろう。
初めて始めたその日から、所詮いわゆる紙の束。それしか持たない僕達は、きっとそれに囚わられ続けるままに。

・すぺしゃるさんくす