「濃い」文章コンプレクス

「良い」文章とはなんなのだろうか。
「読みやすい」文章?
「内容がある」文章?
「情緒的な」文章?
「個人的な」文章?
「内省的な」文章?
「整理された」文章?
「誤解の余地がない」文章?
「勢いのある」文章?
「ゆとりのある」文章?
「リズムのよい」文章?
「誤字のない」文章?
「論理的な」文章?
「新しい」文章?
「簡潔な」文章?

濃い文章を書くことが良いことだとは思えない時期があった。noteのせいだ。そしてそれはつまり他者のせいだった。
他人に読んでもらうということ。それはつまり伝わらないと意味がないということだ。他人に伝えるために書かれた文章というものがあり、それは時折素晴らしいと、優れた文章だと賞賛されてきた。
だが、十把一絡げに”他人”と言ったってなんたってそれはいったいどの”他人”なのだ。少なくとも、noteの大多数を占める「空白の民」ではないだろう。
濃い文章を書くのが好きだ。なぜなら俺は考えてから文章を書いているからだ。考えて全部出して眺めた後に言いたいことを必要最低限で書き切る。必要十分というのがあれば、それが理想だ。
だが、文章は伝わらないと意味がないという主張にいつも不快なほど揺らされてきた。なぜなら、彼ら彼女らの言う伝わるだのwebライティングだのということはそれ即ち無駄を増やすということなのだから。小難しいことを書いてはいけないのだ。民主主義なので。
インターネットの文章をバカにしてるのか?誰も時間をかけて読まないって言いたいのか?アテンションを稼げないと屑以下の塵芥だって?
そりゃ、そういうときもあるさ。眠たいときとか疲れてるときは他人の文章なんか読んでる場合じゃない。長い文章は読みたくないしまとまってないから読み飛ばすこともある。空白がないと理解に時間がかかる気もしないでもない。
でも、だがな、どうして常にそこに射程を合わせる必要がある?悪いときがあるのと同様に調子が良いときだって存在するだろう。そんな時に薄いものしかなかったらどうだ。じゃあ知りたい情報があって検索しているときは?難しく高度なことが書いてあるけどそれがちょうど知りたかったときは?
書きやすい読みやすいという一つのあるスタンダードと共に、俺は常に「濃い文章」を書きたかった。もちろん、そんなもの書きたくない気分書けないときだってある。二つのスタンダード、互い違う正義だ。ならどちらかは間違ってないといけない。それならば、俺は「書きたい方」を優先する。
毎回毎回文ごとに改行入れるのめんどくさかったんだよな。良い文章?そんなこと読む側が決めればいい。俺はその時々に応じた「書きたい」文章を書くだけだ。少なくとも、邪魔だけはさせない。今ここで釘を刺しておこう。

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