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毎日不投稿

不投稿1日目。
解放感。自由。24時前の時間を机を用意しそこに座ってカタカタやり続ける必要がないという圧倒的勝者。FREEZEというわかる人にはわかるネタをドヤ顔で披露。書きたいことが宣言通り別になかったので束の間の休息を謳歌。

不投稿2日目。
不安。薄い継続目的のつぶやきばかりでFollowerに嫌われるのではないかという懸念。そしてそういった感情の自覚/知覚、メタ認知。そもそも今回の計画の目的は一旦頭をクールダウンすることによってこれからの継続のモチベを高める~読者を選別する、そのための爆弾の用意などがあったのではなかったのか。他者から興味を持たれなくなるのではないかという不安はどうせこれから続けていく予定なのならばどうせ発生は避けられないものなのである意味予防接種になってよかったと思う。それに突発的に感情にしたがって始めたにせよ、前もって宣言しているのでそこで離脱してしまうようなユーザなのならばそういうものなのだろう、という他者をコントロールすることの無意味さを経験-理解。
癖でついnoteの通知をチェックしてしまうが、当然普段より反応は少ない。それでいいと思いつつ、すこし無常を感じる。それと同時に、自分が無意識にそういう物を欲していたのだなと気づくことが出来た。
そういった諸々もあり、何気ない顔をして投稿してみようかと思ったがまだ継続できると思い我満した。耐えられなくなるまで辞めない決意。というか普段とは違う自分の状態を観測するのが楽しい。

不投稿3日目。
休むことに対して特別感がなくなってくる。実家での生活も慣れ、書く時間を捻出することにも苦労しなくなった。家族の生活リズムを把握するのに時間がかかり、なおかつ規則通りの早寝早起きなので夜ふかしに罪悪感が募る。だが、これなら別に投稿を継続することはできると判断。
noteの継続記録が薄まってしまった/薄めたことで自分の中でそれの価値が消失。執着が減ったかもしれない。
それと、「別に書かなくても死なないな」ということが判明。他人からの評価やPCと向かい合う時間はなくても生活ができた。だが、なぜか日常の密度が低下したような感覚。3日前何をしていたか明らかに思い出せなくなっている。時間感覚の消失?これによってアウトプットが記憶に与える影響を再認識。それと同時にこれ以上の継続は投稿の再開に悪影響を及ぼすと判断。よって、この記録をまとめ投稿することを決意。