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人生という名の木の幹を太くし根を深く張る タイパだけじゃだめだよ

最近の若い人は、タイムパフォーマンスとか、コストパフォーマンスを大事にしてるよね。だけど、それでは充分じゃないと思うんだよ。

いわゆる合理性の追求だとは思うんだけれども、人間50代を過ぎてくると、この合理性だけでやってきた人は、判断の浅さが目についてきてしまうんだよね。

つまり目先のことでしか考えないような人間になっちゃうんだよ。

木に例えると、実をならせることばっかりに集中していたために、幹を太くしたり、根を深くまで張ったりすることを忘れていたと言う感じだろうね。

そのためにちょっと苦難困難があると、すぐにぐらぐらと動揺して、動揺したまま判断を下すから、判断自体もぶれて使えない感じになってくるんだよ。

そこでこの人間としての幹を太くしたり、音 根を深く張ったりするということについて考えてみる必要があると思うんだよ。

そこでちょっと古い本だけれども、明治から大正にかけて活躍した作家で幸田露伴と言う人の努力論というのがあるんだよね。



今幸田露伴なんてほとんど誰も話題にしないけれども、今の時代改めて読んでみると、めちゃくちゃいいことが書いてあって参考になるんだよ。

まず幸田露伴によると、努力というのは自分をリニューアルするため、つまり自己革新のためであると言っているんだよ。

今までの自分とは別の自分になりたいと言う願望は誰しも持っていると思うけれども、1番確実な方法は教養を積んで人生観とか、認識力とか、世界観とか、そんなものをやはり深めていくことだよね。

そのために歴史を読んだり、心理学を勉強したり、宗教書を読んだり、哲学書を読んだりするんだろう。

そういったことで、自分が新しくなって、真実の自分というのが見えてくるし、それが努力としてはまず第一に目指すところだと言っているんだ。

それからもう一つ、すごく大事なことだと思うんだけれども、努力の量が大切だと言ってるんだよ。とにかくまず数量的にたくさん努力をしろと口酸っぱく言ってるよ。

ここは最近の人が最小の努力で最大の成果を上げることに必死になってるけど、ちょっとそれは充分じゃないと言うことだよね。

つまり、量的にたくさん努力をすると、それが質に変わっていくと言うことなんだよ。

この量が質に変わると言うところが、味噌なんだ。

そして、これが多くの人に求められる、希少性とか、代替不可能な尊さとか言うものになるんだね。

そして最後にこれもとても意外なんだけれども、努力をし続けている人には、その過去が美しくなると言うメリットがあると言っているんだ。

これはとても面白いね。

過去は変えられないというのが常識的な考えだけれども、確かに事実としてはそうかもしれないけれども、努力をし続けて、真の自分を追い求めて、努力の量的な拡大を続けた続けた次来た人には、過去の惨めな失敗とかが、美しいものに変わっていくというのが幸田露伴の持論なんだ。

そうすると結局努力と言うのは、よく言われる真善美の追求と同じだと言うことだろうね。

こういう努力をしていくと、例えば川に架かる橋が大きければ大きいほど安心して渡れるように、多くの人に信頼されるよね。

これは無用の用とも言われるけれども、この辺に人生としての木の幹を太くし根を深くすることの大切さがあるんだろうね。

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