「やっと転ばなくなりました。」

 私はスーパーマーケットに行くのも、そこに集まる人達を見るのも好きだ。小池都知事が「お買い物も三日に一度にしてほしい」と言っていたし、神経質に「汚い手で触るな」とレジ打ちのおばさんに怒鳴るような人もいるらしいが、あれは、何かがほしい、というより、人恋しくて買い物に出る人たちだったのではないか。

 近所のスーパーマーケットでも、朝と夜とでは雰囲気が全く違う。朝いちばんで目のきれいなイワシや新鮮な野菜を買いにくるのはしっかり者の主婦だろう、と思われているかもしれないが、実は開店を待っているのはどこでも高齢者ばかりだ。

 「あたしゃもうすぐ九十だけどね、少しでも安いもの買うのがボケ防止なの」と、おばあちゃんが言えば、「オロナミンCなんかじゃなくて、ちゃんと食べなきゃダメだよぉ」と笑い返すおじいちゃんは八十手前だそうだが、「何言ってんだい、ウチは農家だよ、何十年と毎食野菜ばっかり食べてるよ」と言われ、「これはこれは、大先輩だ、畏れいりました、たっはー、参ったねえ」と私に相槌を求めた。そうやって時折ずり落ちてくる布マスクを押し上げ押し上げ、延々とおしゃべりしていたりする。去年のコロナ自粛のなかでも、そんな光景は確かにあった。

 逆に日が暮れてから閉店までは、これもいつものことだが、急ぎ足の仕事帰りの女性、作業着のまま干物や惣菜を買い求める男性になる。週末には、そんなにびくびくしてるんなら空いてる時間に来たらいいのに、というような買い物客もいたが、店員さん達は、いつもいつも、涙ぐましいほど丁寧に商品棚のアルコール消毒をしていたから、いつものように手に取って見て…の後、どうしても棚に返せなくなったりした。

 花粉の飛びかう頃、ひとり目立って厚着した若い男の子が、鼻を真っ赤にして何度もくしゃみしながら、牛肉の塊を吟味しては幾つも幾つもカゴに入れていたのを見たが、まさかコロナかしら、と訝りながらも、全身だるかったらこんな買い物しないし、そもそもなぜそんなに…と、”家政婦は見た”の市原悦子のように柱の陰から伺っていたりした。家で留守番している父は「どうせおまえは寄り道するから」といつも半ばあきらめた感じで送りだしてくれるが、まっすぐ行って帰ってくるだけでも、けっこういろいろあるものだ。それがまた、人に会わない生活のなかでは大事な時間だったりする。牛肉まとめ買いの青年を見たスーパーでは、制服を着たおばちゃん達がはりきっていたが、くまなくニュースを見ていた(見ざるをえなかった)父曰く、そこはコロナ禍のなかでも雇用を増やしたスーパーマーケットチェーンのひとつだろうという。

***

 五月も終わりの午前中、父の訪問リハビリが始まる前に徒歩でスーパーに行き、施術が始まってほどなく戻ったのだが、その雨の合い間の帰り道、保育園のお散歩に出くわした。

 それは、かつては農家の人達の私道だった細道で、たぬきも出ると言われる藪の坂道だが、私と一緒にその急勾配を上がった農家のおじさんは、少し息をはずませながら、市に頼んでやっとのことで舗装してもらい、最後の崖のように険しい箇所がそれでやっとコンクリートの階段になったのだと言っていた。私が子どもの頃は、確かにそこは、舗装こそしてあったが滑り台のようだった。近くには防空壕の跡もあったが、絶対に入ってはいけない、と言われ、大人たちが目を光らせていたひどく脆い土質で、やがて入口はしっかりと塞がれた。付近にはたぬきが、いや、ハクビシンがいるとも言われ、近所の人達の間で「見間違いだよ、あれはたぬきだ」「いやハクビシンだ」と論争になっていたが、私は両方見たことがある。その崖下は湧水があるのだ。私有地なので、子どもが見に行ったり魚をとろうとすると叱られたが、そんなわけで、夏の間は夜行性の哺乳類より、爬虫類の方に警戒すべき草深い道でもある。

 とにもかくにも、子ども達は、その急勾配の細道を「気をつけてね」と保育士さん達に声をかけられつつ降りてきたのだった。私は、その階段の脇に立って、彼らが行き過ぎるのを待った。藪の崖を下りてきて、その先にひらけた明るい景色に気をとられるのか、転ぶ子が多い。その最後の数段の階段を両足ジャンプで降りようとする男の子にならって何人かが同じことをしては、それがまた次々に転ぶ、よろける。先生がだめだと言っても、はしゃいでいるのだ。性差は文化という後天的なもので、あってないようなものだ、というのがこのごろの常識になっているが、私が目にしたのは、女の子の方がみんな足元をちゃんと見て歩いているのに、男の子の方は次々にすっころびまくっている、という光景だった…あるいは、彼らは、保育園での生活で、すでにそんな行動のあり方も学んでいるんだろうか。

 まだ三つ、四つの幼い子ども達だ。細く長い二本足に、そろいの帽子をかぶった大きな頭がきょろきょろと落ち着かない。子ども特有の、いかにも転びそうな体つきだ。それでもじきに、お母さんが慌てて駆けださないといけないくらい、ちょろちょろ走り回るのだろうが、坂道のせいか、なんだかどうにも歩きなれていないように見える、ぎこちない足どりが気になった。

 転んだ子どもは、保育士さんに抱き起されたり怪我を確認されたりするのだが、またすぐ立ち上がり、転んでいるお友達のそばでジャンプをはじめたりするので、三人の保育士さんではとても間に合わない。転びながら覚える、転ばせてもいい、という場合も、それはあるだろうが、コンクリの上で転ぶと痛い、ということはさっさと覚えなさいねえ、と思いつつ、「君はもういい、もういいのよ」と金切り声をあげてはしゃぎまわるおちびに声をかけたら、その子はこっちを見上げてニイッと笑った。

 晴れていてよかったですね、このところ雨ばかりで、と、ようやく一人を抱えおろした保育士さんに言うと、ええ、ほんとうに、と、ほっとした声が返ってきた。保育園まではあと1ブロックくらいだが、もう平らでまっすぐな道だ。でも、この”難所”は、やっぱり歩かせた方がいいだろうとも思う。

***

 私自身があれくらいの時は、大人ばかりのなかで育ってきて、自分も大人のつもりでいるようなところがあった。そのせいか、幼稚園の通いはじめに泣くようなこともなく、三月生まれで体も小さいのに、まわりにそう気圧されてもいなかったらしい。母も「あのおしゃまさん」は幼稚園でもそう心配ないと思っていたそうなのだが、ある時連絡帳に「やっと転ばなくなりました」と書かれて、はじめてギョッとしたらしい。

 おしゃまさんはよほどママが怖い顔しないとと言うことを聞かなかったのよ…というのは確かにそうだろうと思う。だから、母は、なかなかに厳しいお母さんで通っていたのだが、幼稚園の先生にそう言われるまで、なぜか私が転びやすいことには気づいていなかったらしい。同時に、そうやってちょろちょろ走り出すようになってから、両親は私が顔からすっころぶことに気づいた。手がつけない、手の反射が遅い子だったのである。

 だから大人しくしているかといえばその逆で、木登りして落ちたり、ジャングルジムから落ちたりで、周りより腕や握力が弱いのに無茶しては擦り傷をつくっていた。叱られても、おそらく自分のイメージ通りに体が動かないということがわからない子どもで、小学校に入ってからは逆に竦んで動けなくなってしまったのだが、転んでばかり、怪我ばかりだったのだ。

 父が、週末ごとに私と弟を高尾山に連れて行くようになったのはその頃からだ。それでも、ひどく車酔いしやすく、風邪をひきやすい体質が変わったのは、近所の小学校の先生が一緒に早朝マラソンをしてくれるようになってからだった。それまでは、何をしても気持ちに体がついていかない状態だった。つまるところ、三月生まれのおしゃまさんは、頭でっかちだったのだろう。

 五十歳を迎え、これから先は「イメージした通りに体が動かない」のが周囲に成長が追いつかないせいではなく、老化のせいになったりする。まだまだ適度な運動で補えるし、それがないと逆に衰えるままになってしまう。母は入院中、息をひきとる前日まで、リハビリで関節を動かしていた。そうでないと、体が固まって、パジャマの着替えさえできなくなるのだそうだ。健康な人でも、整形外科にきている高齢者女性は、前かがみで歩く癖がついている人が多いという。狭くなった可動域、言いかえれば、動かせるところで動くことに慣れていると、痛みや違和感を感じてもほんらい体が動かしやすい姿勢をとることもなくなってしまう。

 本人はすっかり忘れていたが、乳がんが見つかる前、母は五十肩だ、五十肩だと言って、布団を敷きっぱなしにすることが多くなった、と自分で言っていた。血行が悪かったことは間違いなくて、痛かった方の右腕の下、右胸でがんは見つかり、転移して肩のリンパ節で悪さをした。ある日突然、外出先で椅子を持ったときにプツン、と筋が切れた感じなの、と言って、私に夕飯の支度を頼んだ。そして、その腕は二度と動かなくなった。

 これで楽なんだからいいの、と抵抗し、これではいけないの、と言われて、母はむくれたが、リハビリ士さんはそんな甘えをピシャリと撥ねつけて腕の曲げ伸ばしも続けた。入院したばかりの時は、痛み止めで朦朧としているときにも、バレエのポーズとってごらんよ、と言えば、動く方の手だけピンと指先まで伸ばして、おどけて、小学校四年生で踊ったというコハクチョウの踊りをしてみせた。雀百まで踊り忘れず、とはよくぞ言ったものだと思ったが、それからほんの二か月くらいのことだった。

 それでも、そろそろだ、と言われ、心電図のモニターをつけた状態でもそんな調子で二週間近くが過ぎ、今日は機嫌がいいな、と、冗談口にほっこりして帰ったその翌朝に、突然病院から電話がかかってきた。ほんの数カ月の間に、天寿をまっとうする人なら十年くらいかけてそうなるものを、私は凝縮して見てきたのではないかと思う。それは、母にとってほんとうに苦しい時間だったに違いないが、私は”その日”に備える時間をもらえたのだった。

 看護師さん達が「一緒に見に行こうね」と励ましていた桜はまだ固いつぼみだった。通夜の夜はみぞれが降った。母が息をひきとったあの病院は、私が駆けだしては転び、ジャングルジムから落っこちていた、その幼稚園のすぐ近くにある。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?