out of your comfort zone

 ワンマイルウェア、というのがある。

 最初に見たのは無印良品で、自宅から1マイル圏内に出る程度で着る服、として売り出している、ゆるっと着やすく、それでいてルームウェアではない、というラインだったが、けっこうあちこちで、この”ワンマイルウェア”を見かけるようになった。日本で1マイルといってすぐにピンとくる人はそういないと思うが、みんななんとなく理解しているのだろう。車に乗って、ジムに行く、とか、ガソリンを入れるついでにコンビニに寄るとか、それもだいたい1マイル前後だ。

 イギリスでは自動車の速度メーターもマイル表示で、教習所はなく一般道で練習するにあたり、日本と違って歩道ときっかり分かれた車道の幅は広く、毎時40マイルくらいに踏み込むことはザラだった。だが、日本で教習所に入りなおして、ようやく一般道に出た時には時速50kmはけっこうどきどきだった。全然感覚が違う。日本の教習所の方が厳しく丁寧なわけだと思った。1マイルは、約1.7kmだ。一般道でも時速70kmくらいでないと、周りの車両の流れを妨げかねないこともままあった。でも首都高をはじめて走った時は、どうしてみんなこんな曲がりくねった細道で飛ばすんだろう、と、怖くて仕方なかったのに、メーターをみやるとその時速70kmくらいだったのだ。

 あなたが運転なんて危ない、と鼻であしらう人は少なくなかった。だが、実際教習所で受けた適性審査の結果は、慎重すぎる、であって「あたまでっかちでぼーっとしてるから」、「ママさんドライバーみたいに、知ってる道だけ、でもそこはもう交通法規無視で行っちゃうってやつでしょ」というのは、やっぱり私のことをあんまり理解してなかったのだろうと思う。まさにその、「いつもの道だから」と、確認せずに右折した車があって、対向車線でそれを避けようとした車がこともあろうに園児達の信号待ちの列に突っ込む、という悲惨な事故もあったわけだが、私は、父に言わせればヘタな考えやすむに似たりで、そこはクラクション鳴らしていいんだ、という場面でも、ぼけっとして動けずにいたりする。確かに父は、自分でその状況をなんとかしよう、という意識が強い人なんだなあと思うが、その真似はしない。「だって、あたし、ヘタだもん。」

 未熟で引っ込み思案でどこを見ているかわからないのに、踏み込む時は頑固に踏み込む。だから助手席の父は怒鳴りまくった。「おまえの頭はおかしいんだ」「ナビに頼らず覚えろ」「ちゃんと見てるのか、どこを見てるんだ」。初めて聞くひとはたいてい、それは怒鳴りすぎだと思うらしいが、父のことは中学生の頃から知っている伯母は、「まあそれがまた、ヨシオさんの楽しみなのよねえ」と、四十歳過ぎで免許をとった姪っ子が運転する車でもにこにこしながら乗るようになった。

 実際、何をやってもとろくさい引っ込み思案が、ようやく意を決して踏み込むタイミングじたいは、「それは慣れだ、ペーパー講習なんかで身につくもんじゃない」と父は言いきった。そして、「俺も命が惜しいんだな、とつくづく思う」と言いながら助手席に乗り続けた。行き先は、温泉目指しての曲がりくねった山道とか、地元ドライバーにさえ再開発が俟たれているであろうごちゃごちゃした街中の、立体駐車場に行く坂道もやたらキツイとか、いま思っても、どうしてペーパーがいきなりあんなところに行ったんだろうというところばかりだった。

 引っ込み思案が迷い出すと、かえって危ないのは適性審査の結果の通りだったが、そこでヘタに踏み込んで擦る、とか、おまわりさんに捕まる、とか、さらには、命も惜しいが修理代も惜しい私が泣くハメになったことも何度もあった。猫には「ここは通れる」と感知できるヒゲがあるが、私の車両感覚は甘かった。だが、そういう望ましくないトラブルが起こるのは、実はだいたいがワンマイル圏内だったのである。

 もし、父が難病で運転できない体にならなかったら、私は車の運転はしなかっただろう。歩きと自転車でワンマイル圏内なんかゆうにカバーできていたから、カーシェアを利用するよりも、リュックサックを背負って買い物に行く方がずっと簡単に思えていた。バスと電車でたいていのことは間に合い、ワンマイルくらいならタクシーに乗るより歩いていた。乗り物のなかでぼーっとしてるのがもともと好きだったし、父はとにかく車の運転が好きだったから、飲んでなければ、ほいほいと迎えにきてくれた。それでも免許をとったのは、イギリスの片田舎で、車がないと全く行動範囲が狭まることを痛感させられたせいであり、実際、母、祖母、父と、病院通いには車がないと難しい。

 車の運転は、いまでも、私にとっては緊張する冒険だ。疲れすぎると自宅からワンマイル圏内ではいわゆる”ヒヤリハッと”が起こりやすい。いよいよ療養生活というしかない状態にある父はよく、そのぼんやりが運転中起こったら人が死ぬ、と私を怒鳴りつける。それはそうだなあと私も思う。

 でももし、そういう緊張感もなく、どこかぼんやりと、締めつけのないゆるい服で過ごすような感覚でいたら。そうであったら、箱入りのまま、ずっと事故を起こさずいられただろうか。

 ”out of a comfort zone”という言葉がある。介護の上、コロナ自粛と、ワンマイル圏内限定の生活を、でも少し変えないと、という意識を持つのは、意外と、何かを新しくはじめるチャンスなのかも知れない。ネットで調べると、MBAでよく使う言葉らしい。卵を割らないとオムレツは食べられない。論文を書いている時によく思ったが、結局自分がいままで考えてきたこと以外から着想を得ることなんてできない。でも、殻をやぶって、ひっかきまわしてみることで、また別のものが生まれたりもする。

 自分にとって居心地がいいと思えたことが、ほんとうに居心地よかったのかどうか、気づくことができるのも、一度そこから押し出されてのことではあるのだ。



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