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統合失調症の自分のこと

自分のことで言うと、SNS等ではあまり自ら話さないわけだけど自身未だに医師からは「統合失調症」と診断されております。そもそものピークは18歳の春頃なんですが、ほぼ寛解の方向に近い今もなお、過去数回に渡る再入院など、病状が悪化を辿れば振り出しに戻る可能性があることも考慮しての診断なんだと思います。

まあなんでじゃあ自分は統合失調症のことを発信しないのかとか、どうして触れないのかというと、当事者(敢えて自分は外すとすると)が今なお苦しいのがわかるから今も向き合いながら困難な状況にいる方たちに対して自分の姿がちらつくと、今の日常的な内容のアカウントではSNS上の振る舞いや見え方があまり良く映らないのではないかと思ったりするからです。
…絶妙な気持ち。

励ましたり応援したりしたい気持ちはあるけど、そのためにアカウントを使い分けるなども個人として好ましくないので「ありのままでやっとります」という形で存在することしか出来てないです…。

今もまあ幻聴とか、聞こうと思えば常に聞こえるし、周りの目には大なり小なり敏感だし、なにかのノイズ(車のエンジンや近所のボイラーとか室外機の音など)が声に聞こえてきたりとかは全然あります。

そしてその幻聴とか周囲の話し声の「自分のことでは?」なんて早とちりも、聞こえたら聞こえたで、聞こえちゃったもんは無かったことにならないので、そこはもう言わずもがな向き合い方というか、いかにいちいち振り回されないようにするかでしかないです今も。
自分の調子悪い時とか、状況とかタイミングとかが悪い時にはやはり足を取られますし、完全に振り回されないためには心とか色んな調子とかをブレないように維持して過ごす必要もあるのでやることが多い暮らしな気はします。

けど自分はそもそもでソレによって他人と自分を区別してる感覚に身を置いてない(置かないようにしている)というのと、勿論他人からもそれが理由で区別されることを求めておらず、これは抽象的なイメージの表現になりますが前提としてそんな自分などとも、そうでない他人などもが、同じ地平の高さに存在している体だと認識したい所存です。

あとは当初から、たしかに統合失調症は歴とした疾患ではあるものの、自分はそれによってそのレッテルを自分に貼りながら生きていく、また暮らしていくことに対しては、抵抗などは無くとも疑念みたいなものはありました。

「今は自分は病気だけど病気じゃない自分だって絶対に居るはずだ」

「いずれそれが理由で何かの機会を失うことから身を守りたい」

「自分を統合失調症という言葉で認識しきってしまうのが怖い」

「いつかは普通に暮らすんだという意思を持てなくなってしまうんじゃないか」

「それを理由にして自分自身がどこかで自分を甘やかし続けるんじゃ無いか」

不安や焦燥から闘志のようなものまでが様々に混ざってました。

今、寛解方向に依然として向かってきていると感じる自分が、同じ病に苦しむ人などに何か応援できるようなことがあるかと考えた結果としては何なんですが、自分としては「こういうパターンで生きてる自分みたいなのも居るよ〜」っていう自らの存在自体のありのままをお送りすることだけしか出来ないかと思います。
もしいつか聞く耳を貸してくれる存在が多くなったり、そんな場があったときには改めて声を大きくして言ってやりたいですけどね。

「俺は昔統合失調症だったよ」って。

今はただ、自分は自分の等身大のサイズの努力で歩み続けるだけのつもりです。

昨今、ADHDとか、ASDとか、HSPとか、そういう諸々が昔よりも認知度として高くなってきて、色々と「自分はこうなんじゃないか」とかって変に振り回されるのはナンセンスだと思うし、けれど実際に自分がそう診断された。なんていう事実のものも含めてでも、俺は良くも悪くも自分の領域ではそこらへんに関してをほんとになんも気にしないで、他人に関しても気にしないであげて、そうやって生きてくのもひとつのタフな生き方かもなぁ、なんて一周して最近はよく思います。

from 統合失調症 - Schizophrenia

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