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私 の 身体 Ⅱ

持病の定期検診。
スコアは前回よりは改善していたので、本格的な治療は半年保留になった。緩慢な空気中での溺死を待っているような病で、診断確定後の5年生存率とか言い出すとちょっと気が滅入るものがあるが、まぁ死ぬ時は死ぬし、死ぬまでは生きている。
明日交通事故に遭うかも知れないし(そう言えば先週は横断歩道上で突っ込んできた車に轢かれそうになった)。
予期される未来に向けてなお偶然性を引き受けておけば良い。

私は私のこの身体無しでは私であり得ないが、またこの身体のみでは私ではあり得ない、というのはいかなる事態か。私と身体との関係、所謂心身問題について私にとっての状況を少しまとめておこうと思う。
こんな事を考え出した契機は、記憶を遡れる限り辿ってみると、中学二年の時に参加した学校行事の夏のキャンプでの出来事にたどり着く。
当時乗り物酔いをしやすい体質だっので、酔い止めの薬を持参していた。キャンプ場であれこれ作業をしていて少し気分が悪くなったので、持っていたアンプル剤に加え、錠剤も飲んだ(良い子は真似しちゃダメ)。少し酩酊したような感じになったが、それ以降、時々離人症的な感覚を覚えるようになった。
身体から少しずれた位置から自分を見ている光景を観察している、というような二重化した感覚。身体から剥離した私とはいったい何なのだろうか。
これは言わば私の中の私ならざるものではあるが、私とそうでない外部、というかたちではなく私の中に同時に何者かが存在する事態。

で、「私の」身体。
その開始は私の知らない ー 私が私の経験として語り得ない ー 端点を持っている。また、その終了も私の知らない端点である。
この開始と終了の終端表象を「私が」持ち得ない ー いつ始まっていつ終わるかは私にはわからない ー あり方はつまり無限の時間のうちに宙吊りにされているようなものだ。

医者と坊主と病気の身体

身体の救済を担うのが医者なら魂の救済は坊主の仕事。終端表象の終わりの一点においてその仕事が交わる。二項対立的でありながら補完的、脱構築的な関係。生きている間は同時に機能し、死の瞬間に坊主の勝利の契機が訪れる。肉体は魂の牢獄、哲学は死の学びとするならば、宗教と哲学は身体の機能停止を以て交錯する。

両義性または前-構築

近頃メルロ=ポンティをまた読み直そうかと思っている。
政治的な態度については興味がないので丸々引き受けようとは思わないが、自分の思考の原点を確認したいとは思っている。
「両義性」と言われるが、脱構築というよりはむしろ前-構築のようなことを考えられないか、とぼんやり構想している。

(未了)

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