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三谷幸喜が綴る物語

昨年の大河ドラマは
3年ぶりに毎週楽しみにして最終回まで完走した、なんなら5周くらい周回したドハマリ沼ドラマだった。
『鎌倉殿の13人』である。
鎌倉のみならず平泉や伊豆の鎌倉殿ゆかりの地を訪ねて『鎌倉殿の13人』御朱印帳を作成したほどである。

伊豆と鎌倉合わせて3回大河ドラマ館を訪問


(ちなみに3年前ドハマリしたのは『いだてん』である。そして大河ドラマはこの2作しかまともに見たことない。どうする家康はまだはまりきらないがおもしろくなってきたような…)

三谷幸喜の世界に引き込まれた私は
昨年その勢いにのりにのって
国内では25年ぶりに舞台で再演されるという三谷幸喜の代表作『笑の大学』のチケットを取得した。

そして年が明けバレンタイデー、ついにそれを見るべく渋谷のPARCO劇場に馳せ参じたのである。

渋谷PARCO、みんなおしゃれ

チケットは前日にあわてて発券した。
パルステ!というPARCO劇場のアプリでチケット管理していたので、
てっきり電子チケットだと思っていたら
紙チケットで発券が必要だと前日に気づいたのだ。
雨の中セブンイレブンに走った。
よかった、気づくのが当日会場に着いてからじゃなくて。

平日の夜公演なので日中は当然仕事もある。
舞台に間に合わせるためにあわ食って仕事をこなしてたので直前までチケットを確認していなかったのだが、
会場に入って初めて、C列という、
役者の息づかいや衣装の衣ずれまで聞こえてくるような神席であることに気づいた。
こ、これは、近い!猛烈にわくわくし始めた。

開演前には三谷幸喜が自らアナウンスで笑わせてくるというサービスで和みつつ、
会場がいよいよ暗転。
次の瞬間明るくなると舞台上には瀬戸康史がいた。
はあーイケメンー。顔ちっさー(´д`)
続いて内野聖陽が出てくる。イケオジやー。
芸能人は本当に同じ人類かとこちらが悲しくなるほど造形が美しい。
私の造形など明らかに神様が手抜きしている。

まあそれはさておき、舞台は幕を開けた。

太平洋戦争まっただ中、日本の戦況は日々刻々と悪化している時代を背景に、
喜劇の座付き作家を瀬戸康史、
検閲官を内野聖陽が演じる二人芝居だ。

このご時世に笑いなど不謹慎、
台詞に『お国のため』と入れろ、などと無理難題を押しつける笑ったことのない笑いのわからない検閲官と、
どんないちゃもんをつけられようと絶対に喜劇を完成させ、
人々に笑いを届けたいと四苦八苦する作家。

ちぐはぐのまるで合わないと思われた二人が
検閲を通して
最高に笑えて最高に楽しい演劇を生み出していく。

本当に二人しかいない、場面転換もない
検閲室の二人だけの話だ

お二人とも少々お疲れなのか
台詞を噛む場面がちらほら見られたが
掛け合いが面白くて思わず手を叩いて笑ってしまう。間合いが最高だ。
そして、笑っているのになんだか切なくなってしまう。
徐々に、この芝居のタイトル『笑の大学』が一体何を意味しているのか、気づかされる。

絶望、笑い、希望。

コロナ禍、ウクライナ侵攻をリアルタイムに知る今、
この舞台が再演されるというのは何かの運命だろうか。

理不尽が正義の顔をして襲ってきて、抑圧や分断を強いられても、人は笑い、希望を忘れない。
笑いが人間の生の根源にあることを思い起こさせる。

思えば鎌倉殿の13人も序盤こそほのぼのとした家族の話だったのに、
気づけば毎週地獄のピタゴラスイッチで絶望オンパレードであった。
しかしやはり笑いがあり、希望が残された。

家族の話

また、昨今はコンプライアンスの名の下に、笑いというものは今まで通りにはいかない、転換期を迎えている。
これをコンプライアンスのせいでつまらない世の中になった、と言うのは簡単だ。
しかし、今まで貶まれ笑われて傷つけられていた人たちが、本当は傷つけられるよしもない、と立ち上がっているのならその方が私は健全だと思う。
本当に楽しくて、幸せな笑いを追求していくこと、笑いを諦めない、そんなメッセージににも取れた。

それにしても、マスク着用ではあるが
会場内で観客がみな手を叩いて大笑いするというのは久しぶりだ。
声を出すことを控えることを求められ、マスクで表情も伝わらない。
そういう時間を長く過ごしたことで忘れかけていた、
大きな声を出して笑い合う喜びを『笑の大学』で学びなおす、
私にとってはそんな時間にもなった。

人気がありチケットは入手困難かもしれないが、
是非多くの人に見てもらいたい舞台だった。

あー楽しかった!

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