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漠然とした「死」への恐怖。その先に何があるのか。

 どうも、ちゃる。です。
 今回は、最近ペットショップや動物ドキュメンタリーを観ていて考えることを書こうと思います。簡単なエッセイです。(エッセイにしてはタイトルが重すぎる気もしなくない。笑)

 私は動物が大好きです。幼い頃は獣医になりたいと思っていた程。
 でも、この「獣医になりたい」という夢には、祖父母の家で飼われていた1匹の猫の存在がありました。
 私が幼稚園の年長くらいから、その猫は体調を崩し始めました。その姿を見ていて、どうにか救いたいと思って幼稚園児の幼い私は「獣医になりたい」と言っていました。今考えると、何年先になることやら…という感じですが。

 動物好きな私は沢山のアニマルグッズを持っており、バイト先でもアニマルグッズを担当しています。ペットショップや動物のドキュメンタリー番組を見ては「可愛い!」を連呼し、「飼いたい!」と言っています。

でも、私は決して動物を飼わない。いえ、飼えないのです。

 これには先程の祖父母の家で飼われていた猫が関係しています。
 私が小学校低学年の頃、数年間闘病していた猫は死にました。電話で連絡を受けた母は、若い頃から可愛がっていた猫が死んだことを悲しんでいました。私も触れ合った時間は長くないですが、やはり、「死」というものを漠然と感じていました。
 その日、猫を火葬場まで連れて行き、お骨にしてもらいましたが、その火葬炉に入る前に冷たい鉄板の上に乗せられた最後の猫の姿が頭から離れないのです。冷たく、動かなくなった猫。もしかしたら、まだ起きてくるかもしれない。そんな姿を長時間は見ていられず、思わず隣室へ逃げました。

 幼い頃から寝る前によく考えることがありました。
 それは「火葬炉の中に入れられる瞬間と燃やされる瞬間」。
 痛くないのか、熱くないのか。もちろん死んでいるので神経的な痛みはないのは当たり前なのですが、精神面ではどうなのか。意識はどうなるのか。
 棺に入れられ、火葬炉に入れられ、重たい扉を閉められ、高温の炎に包まれる。その一連の流れを想像するだけで「死」がとてつもなく怖いものに感じました。

 それが、祖父母の家の猫ではありますが、目の前で起っている。
 冷たい鉄板の上の猫に自分の意識を移したように苦しく、深い恐怖を感じました。

 生き物を飼うということは、共に素敵な時間を過ごすことができる最高のことだと思います。ましてや、動物好きの私なら尚更。
 でも、その生き物は必ずと言っていいほど、自分よりも先に旅立ちます。「死」という道を必ず通らなくてはならない。
 今の私は共に過ごす素敵な時間よりも、いずれ訪れる「死」の方が怖い。
 だから私は、動物が大好きでも飼うことができないのです。

 いつか、「死」に諦めがつく時が訪れたら、受け入れられるようになったら、その時は動物と共に素敵な時間を過ごすことになるかもしれませんが。
 その時が訪れることを願って、今日も私は、いつか訪れる「死」を意識せずに済む第三者的な動物を愛でています。

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