私の先生

私の出会った先生はたくさんいるけれど、やっぱり一番忘れられないのは杉野先生のこと。

先生は、私が中学校で所属していた吹奏楽部の顧問の男の先生。指導科目は音楽。専門楽器はフルート。

って書くと音楽教師にいがちな浮き世離れした繊細坊っちゃん先生が浮かぶのだが、そうではなかった。

とてもガタイが良い、引退後のベテランハンドボーラーみたいな、存在感のあるおじさんだった。多分シャバーニくんに似てる。

先生は全てにおいて自由だった。
音楽室には机は要らないという考え方で音楽室の机は向かいの美術室に輸出された。

吹奏楽部の顧問は指揮棒を持っているのだが、先生の練習用のそれは「菜箸」だった。いや、菜箸に似たものじゃなくて菜箸だった。
それで机をパツンパツンとメトロノームみたいに叩いて普段指揮をする。

一回、私のソロから始まる曲で
いつも見ない菜箸じゃない指揮棒

いつも見ない本来の指揮

ソロの緊張感
で、頭から魂が抜けちゃってソロの出だしをしくじったことがある。あの時はごめん、先生。

先生はコミュニケーションが独特。
地響きのような低音で
「おい、ちびちゃん」
と私を呼ぶ。部活中でも授業中でも。
理由は私の入学時の身長が138センチだったからだが、中2の終わり私の身長は155センチだった。もう決してちびではなかったが「ちびちゃん」の呼び名は変わらなかった。私はちびちゃんと呼ばれても嫌じゃなかったよ。
嫌な言い方じゃなかったから。

他にも様々なあだ名の生徒がいた。

先生は実はコンクール全国大会に出たこともあるすごい指導者であったらしいが、ちょっとにわかに信じがたいほど先生は自由にしていた。

私達は新設校の一期生で、コンクールの全国大会どころか地方大会で銀賞の部活だった。
ただ、一つ言えるのは先生と奏でた音楽は独特でひたすら楽しかったことだ。

先生と私達は2年間一緒に過ごした。
先生はすごく黒かった。
先生は長期休みになると「別荘」に行く。最初私は本当にお金持ちで別荘があるのだと思ったらその別荘には「看護師さん」がいるのだ。
別荘とは大学病院だった。

中学2年の終わり、私達の学年全員が集められ「合同音楽」が行われた。
私達の学年は歌がすごくうまかった。いわゆる合唱コンクールでやる気ない男子などいなかった。
なぜなら全員に先生が歌う楽しさを教えてくれたから。

今まで歌ってきた歌をひたすら歌った。先生は菜箸で机を叩くいつもの指揮。

最後に歌った曲は「みんなひとつの生命だから」という曲だった。歌う前に先生が低い低い声で言った。


「俺は、これから一年間別荘に行く。
これが、俺の最後の授業だ。」

信じられなかった。ずっとこんな変な音楽は続くと思っていた。

生命の尊さを歌う歌声は泣き声になり、でも誰も歌うことをやめなかった。

先生の肩は震えていた。菜箸で机を叩きながら下を向いて。




あの最後の授業から2ヶ月後、6月8日。
私の先生は本当に遠くに行ってしまった。
享年48歳。
よく晴れた日だった。
先生の最後の言葉は
「あいつらとまた、音楽したいなあ」
だったという。

先生といたのはたった2年だったけれど、私の人生で最も印象深い先生。

大人になってからも先生のことはよく思い出した。
ひょっとしてあの2年は先生にとって最後の挑戦の2年間だったのかもしれないと今思っている。

絶対に正攻法じゃなかったけれど大きな何かを伝えてくれた先生。

あと7年で私は先生と同じ歳になってしまう。
小さかったちびちゃんは、態度がデカいおばちゃんになってしまった。

私はこれから何を残せるのだろう。
空はあの日のように青い。







このnoteを公開したら、なんと先生の教え子さんが見つかりました。きっと先生はお腹を抱えて笑っている気がします。

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