見出し画像

自分を演じる

私は中学校までは演劇が好きだった。鑑賞するのではなく演じる方だ。他の人になりきって演じるということが新鮮であり自分ではないという安心感から思い切った動作、声、表情を作ることができた。このことを今もう一度考えてみると興味深いことに気づく。それは、演じるということが自分との距離をとるということだからだ。
日常の生活の中で自分とはなんだろうか。おそらくこんなことはデンマークに行って有り余る時間を使って考える機会が与えられたからこそできたことかもしれない。自分はただ主体的な自分であり、行動する中心的な存在だというふうに思う。演じているなどという意識は全くなく、ただ全力疾走している。ときどき芝居っ気があるということを感じていたのはリフレッシュの一部のように考えていた。それが自分との距離を取るというとても重要な意味を持っているということに気づいたのだ。自分は自分と全く同一であるという感覚で生活している。しかしこれは一番大事な自分という素顔というかプライバシーというか、それを素手で持っているような感じになっている。したがって、何か行動をするときには直接それが自分というアイデンティティに影響してくるような、社会的評価に影響してくるような気がして躊躇しがちになってしまう。
こういう時は何か自分に自分が責任を負えないような気持ちになる。そんなことはないはずなのだが、気持ちとしてそうなる。私は思い切って何かするということができないときは、このような気持ちになっていることが多い。
しかし自分が自分を演じているというふうに考えると自分を自分の道具のように見ることができて、それを使ってきちんと責任を負う気持ちで行動できるようだ。ただこれまでは自分を演じるなどというと他人を演じるのと違って自分をごまかしているのではないかとか、意味のないことではないかとか思っていた時期が長かったので、なかなか気づけなかったのだ。自分との距離をとってきちんとした行動をとるうえでこの、自分を演じるということは実は大切なことなのではなかったかと思い至ったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?