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尊厳とはなんだろう

私の問いかけは大抵ここから始まる。そしてそれを考える道のりは、その場、その時、その状況によっていつも異なる。デンマークに行ってフォルケホイスコーレ滞在という10ヶ月の長い時間をもらったおかげで、それについて存分に考えることができ、また、そのように考えてもいいことを知った。
そのようにとはつまり、自分で自分を正面から見つめても良いということだ。そのつもりになっていると案外斜め上から見ていたり、人の目を通してみていたりする。自分が自分を直視するというのは意外と難しいかもしれない。これもデンマークに来たおかげで気づいたことの一つである。
私の考える道のりがいつも異なってくるというのは、その時々で尊厳というものの形が変わるように感じるからだ。それは主に、場所、時間(年齢)、状況によると思っている。
その場その場で尊厳の形が変わるというのはたとえば、ゆったりと音楽の流れるカフェにいるのか、会議室にいるのか、介護施設にいるのか、ということだ。自分がそれらの場所にいることを想像すると、それぞれの場では尊厳の形とでもいうものが異なっているように思われる。尊厳とはお互いに守り合うように努力すべきものとすれば、場所によって異なる形をとっているお互いの「尊厳」をどのように守り合うかという具体的な行動がやはり異なってくるだろう。
その時々の尊厳というのは、子供の時、青年〜壮年、高齢という具合だ。子供には将来の自分の尊厳の形について想像するのは難しいだろう。なぜなら経験していないからだ。同じ理由で壮年期の人も高齢者の尊厳の形を想像するのはむずかしい。結局、高齢者がずべてを経験してきている、それぞれの時々の尊厳の形を振り返ることができる。というより、振り返る時間を与えられるといった方が良いかもしれない。つまり年齢に伴う衰えを知ってなるほどと頷くわけである。この高齢者の知る尊厳以外は残念ながら実感を伴わない想像である。自分を振り返るとそのように結論せざるを得ない。
ただ、尊厳をより良く想像することができる方法はある(あった)と思う。それが3つ目の状況による尊厳の形である。尊厳は単体のように存在するのではなく、お互いに守り合う努力をするものである。つまり、具体的な行動を通して尊厳を守り合う経験ができる。若者と高齢者が尊厳を守り合う状況、例えば、対話、食事、介護、いずれも日常にありうる状況だが、二人の人間が尊厳を守り合うように行動するということで、相手の尊厳の形を想像することができる。これは尊厳などという言葉を使わなくても日常の規範の一部になっているではないか。きちんと思い出しておかねばならない。
これらのことから、尊厳を守るという行動を取るためには、様々な場所、様々な年齢、様々な状況を他人と共有することが必要だ。フォーカスするのは相手の尊厳の形を想像すること。それを守り合うということだ。その意識がまた一つ自分の人生の日記に記されることになるのだろう。

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