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作られたものを見る目

先日はとあるプロジェクトの一環で若者数名にプログラミングを紹介するという講座を行なった。まず最初に手製の簡単なコンピュータ上のゲームを見せて遊んでもらい、意見や感想を聞いてみた。すると、熱心に遊んでくれてもっとこうしたらいいとか改変に関するアイディアをくれた人がいた一方で、こんな簡単なゲームなのに何十行もコードを書いているのを知ってやっぱり難しいんだなという感想を持った人もいた。
私は昔も今もあまりゲームをしない。攻略するということに興味があまり湧かないのだ。それより、どうやったらこんな画面を作ったり動かしたりできるのだろうと考えてしまう。つまり作る側の意識が大きい。ゲームはいくら複雑でもそれは誰かが作ったものだ。その作者の意図を超えて進行することはバグなどを除いてまずないなどとすぐに考えてしまう。そんなことを考えるとどうも、あまり面白味を感じないのだ。もちろん、ゲームを攻略できるほどひらめきやスキルを持ち合わせているわけではない。だから本当の面白さを知らないで言っているだけだということも言える。それにしても同じゲームというものでもどこに興味を持つかというのは全く人それぞれだとつくづく思う。
どちらにしても共通して言えることは「作られたもの」を見ているということだ。ゲームにしても書籍にしても、音楽にしても、誰かがそれを作っている。作っているもの、つまり材料は自然のものかもしれないが、それらが放っておかれて勝手に物ができたわけではない。歯車、ゼンマイ、針を積み上げておいても自然に時計ができるわけではない。それらをコントロールして然るべき場所に組み付けて初めて時計になるのであり、音楽になるのであり、本になるのであり、ゲームになるのである。作るという行為は高度にコントロールされた何かが必要なのだ。それが「技術」と呼ばれるものである。
作られたものには技術が埋め込まれている。その技術に興味があるのか、技術によってもたらされた結果に興味があるのか、ということなのだろう。その違いはそのものに対する期待(目的)によると思う。それを自分の何かに利用しようと思えば、もたらされる結果に興味が湧くだろうし、それを自分も作りたいと思えば、その技術に興味が向くだろう。そして結果を自分なりにカスタマイズしようと思えば、両方に興味が湧くことになるだろう。作られたものとは、創造物である。自然もある意味創造物と考えるならばその中にはもたらされる結果と埋め込まれた技術があるはずである。作られたものを見る目はいつも探究心の入り口になっている。

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