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当たり前とはーー日々の尊厳

「ありがとう」の反対は「当たり前」だと言われる。目の前に絶えず起こり続ける様々なことも「当然のこと」だと思えば,驚きも感謝の気持ちも生まれない。もちろんワクワク感もない。つまり、自分とは「関係ない」ものとしてしまうのだ。そしてさらに思いがちなのは、ものごとが「当然の如く」進むのはとてもクールなことでかっこいい。無駄のない合理的な行動は時間も節約できるし余分なことがないので面倒くさくない。若い頃、特に会社員時代はこの「当たり前に物事が進む」ことを目標にしていたといってもいいかも知れない。
ただ、「当たり前に物事が進む」のと「物事が進むのは当たり前」ではだいぶ意味合いが変わってくる。当たり前に物事が進むのはそのように進めるための不断の努力の賜物である。物事に関わる人全てが気を遣い、スキルを使い、コミュニケーションをとるからそのように進むのである。だから感謝することができるのである。一方、物事が進むのは当たり前というのは,自分の勝手な思い込みである。周りを見ずに自分だけの考えを表しているに過ぎない。
デンマークのフォルケホイスコーレではグループに分かれ力を合わせてある週のテーマイベントを成功させた。このとき、私は日本流に皆に感謝の言葉を送ったのだが,一緒にやった学生たちからは感謝の言葉の代わりに「(皆)よくやった」という讃える言葉が返ってきた。個人と個人が対等であるデンマークではへりくだったり謙遜はしないのでそのような言葉になるのだろう。いずれにしても「当たり前に進める」ことが不断の努力の積み重ねであることは共有されていたようだった。
ところが、このようなことに慣れてしまうからかどうかはわからないが,「進むことが当たり前」と考え始めると、皮肉なことに「当たり前に進まなくなる」それは「ありがとう」や「よくやった」という気持ちや言葉がなくなってくるからである。
「こんなことできて当たり前」という言い方がある。「そうなるのは当たり前」という言い方もある。これらはそのようにする為に努力してきた行動を受け止めるための言葉だろうか。私には(デンマークから帰ってからだが)「受け止めるのが面倒くさい」と言っている言葉に聞こえるようになった。つまり努力をしない言葉である。相手を受け止める努力をしないのは、尊厳を守ることを放棄してしまうことだ。
再び昔のことだが,ときどき、些細なことでも大袈裟なくらい喜んだり、感謝する人がいて、「なにもそこまで・・・」と感じることがあったが、今になってその気持ちが少しわかるような気がする。「当たり前」にするための努力に気づいていたのだ、と。
どの瞬間をとっても一度きりの人生の一瞬である。そこに意味のあるフレーズを書き込むのか、空白で埋めてしまうのか、その選択を自身に問われている気がする。

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