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決めるー日々の尊厳

日々の生活の中で、自分が何かを決めているケースは思ったより少ない。もしも「選ぶ」ことを含めるのなら、しかしこれは結構な数になりそうだ。「選ぶ」と「決める」は違うのか?言葉の意味や定義として違いを論じるのはあまり意味がない。なぜなら私はすでにこれらを「尊厳」に関係づけて使い分けようとしているから。結論ありきの問いだからだ。
「決める」も「選ぶ」も自分からの行動ではある。ただ「決める」のが自分の中にある望みを表に出したのに対して、「選ぶ」は与えられた選択肢の中から自分の希望に近いものを判断する、または別のことで妥協するものである。したがって、「決める」はどちらかといえば内発的、「選ぶ」はどちらかといえば外発的といえる。ただ内発的が良くて、外発的が悪いというのはちと了見が狭いように思う。内発的というのは結構なパワーが必要だと思うからだ。だれしもいつでもパワー全開で全速力というわけではあるまい。所定のタイミングで最高のパフォーマンスが出るように調整してやっと「決める」ことができる。しかも歳を重ねてくれば動作も言葉も記憶もみんなゆっくりになってくる、パワーそのものの総量が減ってくるので以前と同じように「決める」こと自体が難しくなる。
「決める」のに必要なのはパワーだけではない。自分と自分の環境をよく観察して「決めても良い」タイミングかどうか、「決めた」あとの行動が自分や自分の環境にとって十分に意味があるかどうか、「決めた」ことによる結果に対して自分が責任を負うことができるかどうか、そしてそれが自分の幸福になっているかどうか。そういった多くのことを判断することも必要になるはずだ。別に毎回チェックリストを作ってそれらを確認するわけではないだろう。体に染み込んで、無意識のうちに判断できるようになっているのだろうとは思う。だが、年齢や病気でパワーと判断のバランスが崩れてきたとき、「決める」ことはかなり大変なものになるだろうという気がしている。そのとき、こちらの気持ちを読み取るかのようなきめ細やかな選択肢が差し出されたとしたら、それで精神と生活に当面心配がなくなるのだとしたら、ありがたくその選択肢の中から「選ばせてもらう」ことになろう。ここが日本のお家芸ではなかろうか。
しかし一つ忘れてはならないことがある。尊厳とは努力して互いに守り合うものである。「ありがたく選ばせてもらう」のは、あくまで自分のパワーと判断のバランスが不安定になっている間だけということだ。どちらかがどちらかを妥協させてしまうことがないように努力してその時点のパワーと判断のなかで自分が再び「決める」ことができるようにバランスを取ってゆく、それが結局は自分と自分の周りの幸福な人生へとつながってゆくのだろうと思う。

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