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言葉のスキル

言葉の力は大きいと言われている。頭ではわかったような気がしていたが、ここへ来てどうも怪しい。言葉の持つ力をほとんど理解していなかったということに思い当たってきている。なぜか。

自分と他者の思っていることが全く違うということに向かい合っているからである。今まではちゃんと向かい合ってこなかったということだ。これまでは違うことに遭遇すると反発するかスルーすることしか対応していなかった。つまり言葉を使って受け止めるということをしていなかった。受けたとしても自分の土俵で判断した「評価」を下してしまっていたのでそれは受け止めではなく、はじき返しであった。なんのことはない、今までは言葉というものは受け流すか攻撃するだけの道具であった。ということに最近ようやく気づいた。

言葉は不思議なものだ。物事の一面しか表現できないように思うが、受けての想像力によって言葉以上の意味を与えることもできる。柔らかく受け止める事もできる。スルーせずに反発もせずにそのまま受け止めることもできる。その可能性を知ったことは大きい。その意義を言葉でこのように書いてしまうと全く平凡だ。いや、平凡に感じているのは自分だけかもしれない。他の人はこの言葉に含まれている、またはこの言葉が与えるインパクトを想像する能力を備えているのかもしれない。

言葉を使えるようになるというスキルは重要だ。特に受け止める言葉を使えるようになるということが。賛同するでもなく反対するでもない。無視するのでもない。そのままふわっと受け止めるということだ。これができる人は素晴らしい。人の尊厳ということに興味を持ってデンマークまで行って来たが、そこで感じたのがこのスキルである。それはあまりに簡単なひと言だった。

”O.K.(オーケー)"

それが自分を安心させ相手を安心させ、目線を水平に戻し、信頼関係を生むきっかけになっていた。”O.K." この言葉は、自分の人生を背負っている責任と相手が人生に背負っている責任を想像のちからによって天秤に乗せて水平にし、「私もあなたもよくやってるな」とつぶやく言葉に聞こえる。だからある意味ウェットな言葉だ。そして天秤に乗せる双方の人生における責任を認識するという技術が必要だ。想像する技術だ。私は責任という言葉を自分に受け止めることが苦手だ。責任とは誰かが自分にとってくれるものか、自分が誰かに取らされるものというふうに捉える。しかし、自分に対して自分が責任を負うということはとても自然に感じるということもわかってきた。どちらかが他方に責任を負うのではなくどちらも自分自身に責任を負うのだ。そう考えると自分と同じように相手もよくやっているなと思えるのではないか。それが相手を尊重するベースになるのではないか。日本にいて相手を尊重するというケースに遭遇すると、相手を上に置いて頂いてみたり、相手を下において恩着せがましくなってみたりしてしまう。その時の自分はいつでも相手のことは受け止めていない。判断してしまうのだ。目線を水平にするためには、判断せずに自分も大変な思いで生きている、相手も大変な思いをして生きていることを想像することではないか。 まずそこから言葉のスキルを会得する必要がありそうだ。


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