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時代を見通す偉人

世の中には偉人といわれる人たちがいる。時代を見通して新しいことを始めたり、私財を投げ打って社会のために尽くしたり、たくさんの優れた能力を発掘して指導したり、とうてい私にはできないことようなことをしてきた人たちである。ただ私にも新しいことを始めたり、私財を投げ打ったり、指導することはできる。その結果が偉人と言われないだけだ。これは誰でもそうではないか。そう考えると偉人と言われる人たちはできないことをしたのではなく、できることをした結果がすごいことになったのだということがわかる。

では偉人たちはこれはすごい結果になるとわかっていたのかというとどうだろう。必ずしも結果を意識しながら行動したのではないのではないか。私はそのように思う。あくまで結果として時代に乗ったということではないか。そのように考える時ついつい、ではどうしたら時代を見通してすごい結果を残せるのか、という方向になってしまう。私がデンマークで感じた個人主義はビジネスとしてはそういうこともあるかもしれないが、日常として生活として人生としてそうではないようだった。

体当たり

日本的に言えばそういうことになろうか。結果を自分の全身で受け止めるということだ。自己責任という言葉に一番マッチする表現のように思える。人生にすごい結果を残すために見通そうとするのではなく、自分の人生に自分なりの意味を付けるために体当たりする。その繰り返しが結果的にすごいことになる。そんな感じだ。

体当たりをするためにはそれなりの準備が必要だ。むやみに当たっても痛いだけだ。自分の体力知力を動員して戦略を立てベストのタイミングで当たる。その結果は自分で受け止めるに値するだろうし、受け止めたいに違いない。それが次の体当たりの糧になる。しかし私は体当たりの準備で万全を期すことを優先させることが多い。これを先送りという。先送りしているうちに当初のモチベーションは下がり、現状に甘んじるものぐさ癖も手伝って結局何も行動を起こさない。人生に意味を付ける機会を一つ失うわけだ。

宝くじは買わないと当たらない。これは単純な真実だと思う。人生は行動しないと意味が付かない。これもまた然り。行動は大なり小なり体当たりでなければならない。自分で考え自分で決めて自分で行動する。自己決定と自己責任である。そして他人もまたそうであるという想像力。他人も体当たりで生きているという実感。そう思えば他人を揚げ足をとるように批判したり悪くいうことはあまりできないのではないか。

とすれば偉人と言われる人たちは、自分の人生に意味をつけようと、自分で考えて体当たりをしながら生きる多くの人たちの中の、たまたますごい結果を残した人、ということではないか。

私にはできないようなことをした人たちと書いた。しかし、私にもできるはずのことを体当たりでやってすごい結果を残した人たちだと思えば、偉人は手の届かない人ではなく、おそらく普通に尊重し合う人なのだろうと考えた。

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