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「時をかける蕎麦 略して時そば」

※ 注! このショートショートには江戸時代の落語『時そば』のネタバレを含みます。
 
 えー、毎度バカバカしい噺に一席お付き合いをお願い致します。他人から聞く分には笑い話でも、我が身に降りかかったらシャレにならないのが女房に逃げられる話でございます。ええ、アタシも五回逃げられました。朝飯の支度から掃除、洗濯に保育園のお迎えまで全部自分一人の身に降りかかってきますからねぇ。
 貧乏長屋のご存じ八っあん。こいつも逃げられたんですが、逃げられ方がちょいと違った。逃げられたのは寛永三年、西暦に直せば一六二六年のことでございます。
 八っあん、今日も今日とて鵜(う)の真似をする烏(カラス)みたいなことをしておりました。

「オレは江戸っ子だ、細かいことは気にしねぇよ。向こうが透けて見えるちくわとか、このうどんみてぇな太さのソバだっていいんだ。オレは病人だからな。ごちそうさん! 勘定してくれ。いくらだい?」
「八っあん、やけに気合いが入ってるけど呑んでいるのかい? 一六文でさぁ」
「じゃあいくぜ。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ……今何時だい?」
「へい、四つ時でさぁ」
「五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六文!」
「へい、毎度あり」

「アンタ、アンタ! 昨日呑みすぎたでしょう? 早くお店に行かないとまた番頭さんにどやされるわよ」
「いっけねぇ! 支度してくれ! ところでお光、今日は師走(しわす 一二月)の一日だよな?」
「まだ酒が抜けてないの? 今日は霜月(しもつき 十一月)の三十日ですよ!」
「あれ? おかしいな? まあいい、行ってくらぁ! あ、お光、お前甘い物好きだろ? 昨日大旦那が付き合いのある大名から黒砂糖って言うすっごい甘いものをもらったって言ってたからよ、少し分けて下さいってねだってくるわ」
「そりゃありがたいけどね、早く行きな」
「八っあん、ちこくなの?」
「おお、お向かいのお花ちゃんじゃねえか。おはよう! 今日も可愛いねぇ。オレもお花ちゃんみたいに可愛い娘が欲しいなぁ」
 八っあんの奉公先は、江戸薬研掘(東京都中央区東日本橋)の端にある薬種商『やげん掘』でございます。八っあん、ここでは薬研(やげん)を使って漢方薬を粉にする、令和で言うところの薬局の調剤師みたいな仕事をやっております。しかし八っあんに薬の知識はございません。
 ここのお店で、漢方薬のことなら江戸市中で誰よりも詳しいという薬師が今年で白寿(九十九歳)を越えた翁(おきな おじいさん)でございまして、もう薬研で粉にするのは身体がしんどいと言っている。薬の種類と分量は紙に書くから、混ぜて粉にするのは八っあん、お前さんがやってくれと頼まれたのです。
 八っあん元々目端が利くし、鼻が良いから見込まれたのですなぁ。何せ余所のお店の漢方薬でも一嗅ぎするだけで、あれとそれとこれを混ぜて作っているなとおおよそ見当がついてしまうってので商売敵からは
「やげん掘の嗅ぎ八がまた偵察にきたよ」
 とずいぶん嫌われておりました。八っあん、そういう縁もあったからこそ好いていたやげん堀の末娘であるお光と昨年夫婦(めおと)になれたのですなぁ。
「八っあん、ちょっといいかい?」
「へい、大旦那。何でございましょう? お光は今日も別嬪(べっぴん 格別に美しい人)でしたよ?」
「八っあんのことは信用しているから嫁にやった時から心配はしていないよ。そんな八っあんだから聞くんだがね、薬戸棚の在庫と帳簿がどうにも合わないんだ。珍皮(ちんぴ ミカンの皮)に山椒(さんしょう)、唐辛子、他にも色々減っているんだよ。ネズミが引いていったかね? でもネズミもずいぶん減ったよねぇ?」
「薬戸棚の引き出しを開けて、かじった後にまた閉めていく? ずいぶん几帳面なネズミですな……って大旦那、それ昨日も同じこと言いませんでした?」
「いや? 今日が初めてだよ。棚卸しが毎月月末の三十日にやるんだから間違いない」
「おっかしいなぁ? 確か昨日も聞いたんだけどな?」
 八っあん、首をかしげながらも仕事を終えて家への帰り道につきました。
「どうするかな。お光の飯でも良いが、軽く呑んでからソバでも良いねぇ。最近聞いたんだ。へへっ、二八(にはち)そば屋で一文得をする支払い方法を……? そうだよ。オレぁ昨日もその前もその前も同じことを言っては毎回四文損をしてんだ。どうなってんだ?」
 八っあん、往来の真ん中で立ち止まって考え始めました。
「霜月の二十八日は晩飯に冬瓜(とうがん)の煮物と蕪の漬け物を食ったんだ。二十九日は菜っぱの飯に大根の味噌汁。で、三十日の晩に一杯引っかけてソバを食べた……。二十八日、二十九日、三十日までは進んだのに、いつまで経っても師走の一日に進めず霜月の三十日をぐるぐる回っている? 三十日の晩に何かいつもと違うことをしたはずなんだ。思い出せ、八五郎……八五郎。あ、お光の椿油(つばきあぶら)だ!」
 思い当たることを思い出した八っあん、一目散に自分の家に向かって走りました。
「お光が大事に隠してあった椿油があったから、どういう香りがするか嗅いでみようと思って、蓋を開けて一嗅ぎしているところを見つかってどえらく叱られたんだ。珍しい香りだったよな。ソバの香りの椿油なんて聞いたことも無いよ」
 八っあん、外で呑みもせず飯も食わずに帰ったので、いつもよりずいぶん早い帰宅となりました。入り口の引き戸を開けようとしたのですが、さすがやげん堀の嗅ぎ八。家の中から妙な匂いがするのに感づいたのです。
「こりゃ山椒、珍皮に、唐辛子、白ごま、黒ごま、芥子(けし)の実、麻の実の香りだ。お光はいったい何をやっているんだ?」
 亭主のいない昼間に女房が家でおかしなことをしているのは解ります。しかし好いて夫婦になった女房をいきなり怒鳴りつけて問いただすのは、八っあん性に合いません。そこで、知り合いの家の女房にちょいと顔に頬紅をはたいてもらい、酔ったフリをして帰ってきました。
「ただいまぁ~、お光。ちょいとそこで熊公とばったり出会ってな。話が弾んでついつい一杯呑んじまったぁ」
「しょうがないわねぇ、ご飯は無しにしてもう寝るのかい?」
「ああ、床を敷いてくれ。あ、これ土産な。今朝言っていた黒砂糖もらって来たんだ。甘いぞぅ」
「これ、本物の黒砂糖? まぁ! 貴重品だろうに、ありがとさん」
 ゴロンと横になった八っあん、薄目を開けながら
「お光、オレぁここんとこ変な夢を毎晩みるんだ。夢の中では霜月の三十日に一杯呑んでから二八そば屋でソバを食うんだが、そこで四文損をするんだ。で、目が覚めて翌日になると師走の一日じゃなくて、また霜月の三十日なんだ。でもオレぁ昨日のことはほとんど忘れているから晩になると一杯呑んで、また同じ二八そば屋で四文損をするんだ。な? 変な夢だろう?」
「アンタ、本当に酔っているわねぇ」
「そうだろう! まるで昨日に帰ってまた同じ一日を繰り返すみたいなんだ。数えてみたらそれがもう三回も続いているんだぜ?」
「アンタ、江戸時代の人間がそんな考えに思い至るなんて、確かに二回、いや三回は時をさかのぼらないと無理だろうねぇ」
「ああ? お光? おめぇも呑んでいるのか?」
「まあ、呑んでいると思って聞きなさいな。事故とは言え私が調合した時間移動薬の追試験ができたのよ。薬の効果がアルコールで強化されると、時間を飛ぶ時に記憶まで一部忘れてしまうのね。なるほど、なるほど。時間移動の時はアルコールは厳禁とメモしておこう」
「ははは、傑作だぁ、酔いどれ同士の酔いどれ話かぁ?」
「そうよ。薬の調合が今日ようやく終わったから言えるんだけどね、私はこの時代の人間ではないのよ。徳川の幕府が滅んで二千年後の時代から来ました」
「に、二千年後?」
「私もアンタと同じで薬を作る職に就いていたのよ。それも軍隊にとって都合が良い新薬を国の予算で調合するね」
「国のお金で? そいつぁ豪勢だぁ! 朝鮮人参だろうが阿片だろうが何でも混ぜられるじゃないか?」
「私はねらい通りの薬が作れそうになると仕事場に泊まりがけも珍しくなかったの。家に帰るのは週に一日という生活ね。そんなことをやっていたせいで薬は完成したけど一番大事な人を失っちゃったのよ」
「大事な人?」
「未来で私はアンタとは別の人と夫婦だったのよ。でも私が仕事にかまけていたから旦那の病気に気づいてやれず、職場に病院から連絡が来た時にはもう手遅れだったのよ。旦那、一人で……看取る人もいないままに……死んじまった」
「お光……」
「子供が欲しいという旦那の願い一つ叶えられないダメな女房だったと死なれてから初めて後悔したのよ。泣いて泣いて、目がつぶれるほど泣き尽くしたから頭がどうかしちまったんだろうねぇ。私は鬼か天魔でも思いつかないことを思いついちまったのよ」
「いったい、何を思いついたんだい?」
「時間に関する研究で、歴史を改変しても生命の死は変えられないと解っていたのよ。過去にさかのぼって関ヶ原の勝敗を逆に書き直しても、石田三成が慶長五年(一六〇〇年)に死ぬのは変えられないの。だけど新しい生命の誕生までは否定されていないじゃない」
「どうするんだ?」
「旦那の生きていた過去に移動して妊娠してから未来に帰る。旦那の死は変えられないけど子供は生きて産まれるはず。問題は門を見張っている門番よ」
「門番?」
「時間には過去に行く門と未来に行く門があって、どっちも門番が見張っているの。門番は通していいものとダメなものを選別するのが役目。そこを私は通っていいものよと騙さないと過去や未来へは行けないのよ」
「通しちゃいけないものか。唐芋(サツマイモ)食った後、屁がプッとしたくなって力むんだが、その時、あ! これは屁じゃなくて別のものが出そう! って時は解るからな」
「汚いわねぇ! 大体合っているしまあいいわ。過去に行く門の門番は未来のソバを原料に作った薬で騙せるんだけど、未来へ行く門の門番を騙す薬は、江戸時代に生産された漢方薬のどれかを、過去に行く門の門番を騙す薬に溶かさないと作れないとしか解らなかったのよ」
「だからお前旦那の生きていた時代に行かずにまず江戸に来たのか。確かに行くだけ行っても帰れないんじゃ誰もやる訳が無い」
「無謀すぎる実験なのよ。江戸に行ったとして漢方薬を手に入れるつては? 江戸時代のどの薬をどれだけの分量調合するか調べるだけで一年はかかるわ。その間の滞在費は? 衣食住は? 怪しまれないようなニセの身分証は?」
「それでお光、どうするつもりだったんだい?」
「そこで私が軍のために作った薬よ。私が作ったのは敵の陣地に忍び込んだスパイ、間諜(かんちょう)がばらまくと、吸い込んだ敵全員が目上の人間と思い込む薬なの。身内と思い込んでいるスキに敵の秘密やものを盗み放題できるのよ」
「それじゃ……」
「あんたのお店にいた全員が私のことを取引のある大名、自分の娘、大旦那の末娘、自分の女房、とものの見事に思い込んでくれたの。おかげで材料に必要な漢方薬も、実験に使うネズミも盗り放題だったわ。まさか自分で試す訳にはいかないしね」
「それで帳簿と在庫が合わなかったり、ネズミがやけに減ったりしたのか。ん? じゃあ、オレが嗅いだ椿油ってのが……」
「過去に行く門の門番を騙す薬よ。見つからないように隠してあったのにアンタが開けて匂いを嗅いでいた時は肝が冷えたわよ」
「で、薬の調合が今日終わったって言ってたよな? 行ってしまうのか? お光?」
「行かないといけないのよ。旦那が待っているから」
 と言うとお光は完成した時間移動薬の蓋を開けて、鼻をあてがうと気体を思い切り吸い込みました。
「お光! お光!」
「心配しなくたって大丈夫よ。時間移動薬も洗脳薬もそろそろ効き目が切れる頃ですからね。薬が切れれば皆私のことなんて思い出しもしない。そういう風に作ってあるのよ」
「そうじゃねえ! オレぁ心底お前に惚れていたんだ!」

 そう言った八っあんの言葉も空しく、お光はかき消すように消えてしまいました。二、三日はお店も娘がいなくなったと騒いでおりましたが、一週間後には噂にも上らないほど皆忘れておりました。
 もちろん八っあんも忘れたのですが、そこはやげん堀の嗅ぎ八。大事な女という記憶と、お光が完成させた薬の匂いだけは覚えていたのですなぁ。
「確かソバにこいつとこいつとこれを混ぜれば……。ダメだ! 香りは完全に再現できても効果が出ない! オレぁ何か大事な女を忘れているはずなんだ!」
「ごめんよ! 八っあん。どうしたね? ソバに漢方薬なんかかけて? 胃弱の病かい?」
「何だ熊公か。違うよ、忘れていたことを思い出す薬を作ろうとしたんだ。これは失敗作だしお前食っていいよ」
「じゃあ遠慮なく……。う、美味い! 八っあん! この漢方薬をかけたソバはとんでもなく美味いよ! これを薬味にしてそば屋に売りつければ大儲けできるぜ!」
 こうして八っあんが混ぜ合わせた漢方薬は、七種類混ぜたところから七味唐辛子と名付けられ、やげん堀の名物商品として大層儲かったということでございます。
 ソバと七味唐辛子。二つの香りが合わさった時、いなくなった女にまた会えると思い込んだ八っあんの愛の力によって七味唐辛子は生まれたんですなぁ。
 皆さんご存じ時をかける蕎麦、略して時そばの一席でございました。

「ああ、面白かった。さっき一緒に食べたお母さんの薬の原料をかけた江戸時代のおそば、美味しかったね」
「七味唐辛子の香りを嗅ぐと優しかったあの人との夫婦生活が思い出されてねぇ。お母さん、自分で作った薬であんたと時々江戸時代に戻っては、あの人の顔をこっそり見に行くのよ」
 

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