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コンビニおにぎり〜『梅雨のプール』SS

この物語は、『梅雨のプール』(榎戸鍵著)番外編となるショートストーリーです。

コンビニおにぎり


 春だ。
 その日、理日斗は午前中にバイトを終え少し軽やかな足取りで外に出た。
 自転車をこいで家に向かう途中ふと河原の桜を見たくなる。以前ならばあの薄桃色の花からは目を逸らしていたはずなのに随分と前向きな自分の変化に頬が緩んだ。
 心のなかで鼻歌まで歌いながらのんびりと自転車を進める。
 そうして到着した河原の桜はあまりにも鮮やかで美しくて────、
 ああこの景色を、彼に見せたいなと思った。

*  *  * 

  自宅のドアを横目に隣室のインターホンを押す。
 扉はすぐに開いて穏やかな笑顔に迎えられた。
「おかえりなさい、先輩。バイトお疲れさまです」
 優しく声をかけてくれた京介の手には柔軟剤がふわりと香るふかふかそうなタオルが。取り込み中だったところを邪魔してしまったのかもしれない。「ただいま、京介君……あの、今すぐじゃないんだけど、今日の午後って暇?」
「暇ですよ」
 間髪入れぬ答えにほっとする。
「夜はバイトなんですけど……それまでどこか、遊びに行きますか?」
「うん、……あの、花見をしないかなって思って」
「行きます」
 京介の漆黒の瞳が少しだけ揺らいで、すぐに承諾の言葉が返ってきた。
 ホッと胸をなで下ろすのと同時に魅力的な囁きが。
「もしよかったら、お弁当作って行きましょうか」
「嬉しいけど、今からだと手間なんじゃ……急だし」
「卵焼き、ウインナー……あと、アスパラと豚肉があるので炒めます。おにぎりはコンビニで買えばいいし、すぐにできますよ」
「……じゃあ、俺も手伝っていい?」
「うん、一緒にやりたいです」
 一緒に。
 あたたかな春の休日の昼間。
 好きな人と、キッチンに立つ時間。
 どちらも弁当箱を持っていなかったのでつくった料理は大皿にぎゅうぎゅうにのせてサランラップをした。
「京介君は、手際がいいね」
「先輩も、すごく上達してます」
「ん……京介くんが、教えてくれてるからだと思う。ありがとう」
「一緒に料理するの楽しいからいいです」
「うん、俺も楽しい。いつもありがとう」
 お互いに抱いた温かな気持ちを、装飾のない言葉で伝えあう。
 ちゃんと相手の目を見て。
 そういう時はいつも指先がピリピリと微弱に痺れるような、もどかしく、くすぐったい空気が二人の間に流れた。
 先に目を逸らしたのは微かに耳を染めた京介だ。
「……花見、行きましょうか」
「うん、行こう」
「俺が自転車漕ぐので、先輩はうしろ、乗ってくださいね」
 少し幼さを感じるほど嬉しそうな声に胸がいっぱいになった。

*  *  * 

  河原に向かう途中でコンビニに寄った。
 おにぎりのコーナーの前に並んで立つ。
「先輩、何がいいですか?」
「梅干しと、昆布」
「はい」
 節くれだった京介の手が器用にふたつの三角を掴んでカゴにいれる。続けて牛カルビおにぎりとたまごかけごはん風おにぎりも。
世の中色々なおにぎりがあるものだと感心していたら「いろんなおにぎりありますね」と京介が何気なく言うから、なんだかすごく嬉しくなって、少し笑った。

*  *  * 

  河原の木製ベンチは桜の花柄模様だった。硬い座り心地の底に並んで腰を下ろす。
 まずはふたりしてふう、と一息ついた。こういうとき理日斗は、京介と自分はふとした瞬間のペースが似ているなと思う。
 とくに会話をせず、しばらくぼんやりと桜を眺めた。
 やがて視線の先で、枝上を陣取っていた二羽のすずめが元気よく飛び立ったのを見て理日斗は思わずつぶやく。
「……こんなに綺麗だって、知らなかった」
 視界を染める薄桃色は先ほどよりも美しく見えた。隣に京介がいるからだろうか。
 優しい手が伸びてきて、くすぐるように前髪をはらう。
「ん……、」
「花びらがついてました」
「ありがとう。あ、京介君の髪にも」
 お返しに彼の髪に触れた。
 見かけよりずっと柔らかいことをもう知っている。
「ありがとうございます。……お弁当、食べましょうか」
「うん、お腹空いた」
 おかずのラップを丁寧に外して、コンビニおにぎりのビニールも取り去る。
 卵焼きは優しくて甘い味。京介はハチミツを入れすぎた理日斗を責めなかった。「甘いのも美味しいですよ」と卵焼きばっかり食べてくれる。
 彼が手際よく炒めた豚肉とアスパラは食感が楽しく、味付けは理日斗好みだった。
 油でテラテラしたウインナーは冷めているのに格別のごちそうみたいな味がする。
「外で食べるといつもより美味いですね」
「うん、」
 頷いて隣を見ると、京介はたまごかけごはん風おにぎりを頬張っていた。
 どんな味なのだろうか。
 想像できなくてついじっと見つめてしまう。
「……先輩、もし良かったら食べますか?」
「え……、いいの?」
「どーぞ」
 差し出されたおにぎりをパクッとかじった。
 なるほどたまごかけごはん風だと納得しながら咀嚼する。
「どうですか?」
「たまごかけごはんだった。美味しい」
「よかった」
 京介がふっと微笑んだ瞬間、少し強い風が吹いて花びらが舞った。
 彼がいなければ自分はきっと、この先一生たまごかけご飯味のコンビニおにぎりなんか食べることはなかっただろう。料理もしなかった。桜を見て、綺麗だと思ったものを共有したいと行動することも、きっとなかった。
 そう思うとこの時間はとほうもなく愛しいものだ。あたたかくて、心にまで春が訪れているようだなんて考える。
「京介君、牛カルビ味も一口ください」
「なんで敬語なんですか。可愛いけど」
 はにかんだ京介は牛カルビおにぎりのビニールを器用に剥いて、半分に割る。
「はい、どーぞ先輩」
「半分もいいの?」
「そのかわり、先輩の梅干しおにぎりも半分もらうから」
「うん、ありがとう」
 その日、花見で理日斗の心に一番強く残ったのは桜の美しさではなかった。
 思い出に刻まれたのは世界でたった一つの得難い食べ物。
 京介の思いやりと愛情が詰まった、半分のコンビニおにぎり──……。


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