カッコいいりゆう

 ダイキくんはいいなぁ。またユカちゃんとけんかしてる。きょうのけんかのげんいんは、バレンタインデーにダイキくんがもらったチョコレートのことだ。

 ユカちゃんはよくとおるこえで、

「ちょうしにのるのもいいかげんにしなさいよ。六年生からも、となりのクラスの女の子からも、四年生からもチョコレートをもらったからって、うかれてんじゃないわよ」

 とダイキくんをこうげきする。放課後の教室に、ユカちゃんの声はよくひびく。もうぼくたち四人いがいのじどうは帰ってしまっている。

「ちょうしになんてのってねーよ。おまえ、だれかにチョコレートわたしたのかよ」

 ダイキくんの声は、ユカちゃんより高い。

「アタシはだれにもあげないわよ」

 ユカちゃんの色白のほっぺたが、すこし赤くなったように見える。

「おまえみたいにオトコみたいなヤツ、すきな男子なんていねーんじゃないか?」

 ダイキくんがよこめでユカちゃんをにらみながら言うと、ユカちゃんはだまりこんでしまった。めずらしい。

 すると、いつもユカちゃんといっしょにいるあいりちゃんが、

「あいかわらず二人、なかがいいねぇ」

 と、おっとりと言う。

「あ、そう!」ぼくも、ずっとそうなんじゃないかなぁとかんがえていたんだ。「だよねぇ。ほんとはユカちゃんも、ダイキくんにチョコレートをあげたかったんじゃないの? ダイキくんだってさぁ、ほんとはユカちゃんからほしかったんだって、すなおに言えばいいのに」

「あいりちゃん」とユカちゃんの声が聞こえたのと、

「じゅん!」

 とダイキくんが右うでをふりあげたのは、どうじだった。

 ユカちゃんはあいりちゃんにつかみかかろうとする。

 あいりちゃんは笑いながら、ユカちゃんの手をにぎっている。

 ダイキくんはぼくをなぐろうとするから、ぼくはダイキくんの手をおしかえす……。


 ソノシュンカン。

 ボクノアタマノ中ガ、イッシュンダケマッ白ニナッタ。


 ソノシュンカン。

 ワタシノアタマノ中ガ、イッシュンダケマッ白ニナッタ。


 もとにもどったとき、ぼくの目の前には、「ぼく」が立っている。

 あれ? ぼくはどこにいるんだ?

「じゅん」ダイキくんの声が、えらく近くから聞こえる。ふだん聞いているよりも、なんだか低いぞ。「もう二どとおかしなこと言うんじゃねえぞ」

「はーい」

 目の前の「ぼく」は、いつものぼくが聞いているよりも、少し高い声で答える。ぼくっていつもこんなににたにた笑っているのかぁ……って!

 もしかして今のぼくは、ダイキくんの中にいるってことか?

 でも目の前の「ぼく」は、たぶんふだんどおりにはんのうしているし……。

 何がおきているんだ?

「あいりも」ユカちゃんの、少しかすれた声はいつもとかわりがない。「もうゼッタイに、おかしなこと言い出さないでよね」

 ユカちゃんの、ちゃいろっぽくて、まっすぐで、長いかみのけが、プイとよこを向いたときにユカちゃんのほっぺたにかかった。やっぱりユカちゃんってきれいだなぁ……。

「うん……わかったぁ……」

 あれ? あいりちゃんもぼくとにて、もともとおっとりとはしているけど、こんなにゆっくりしゃべる子だったかなぁ?

 それにあいりちゃんの目! たぶんユカちゃんを見ているんだろうけれど、なんだかいつもとちがう気がする。いつもはもっと黒目がぱっちりしていた、と思うけど……きょうみがないからあんまりちゃんとは覚えてないんだよね……今はまるでねおきみたいにトロンとしているなぁ。

「じゅん、帰るぞ」

「うん」

「ぼく」の目も、あいりちゃんの目と同じように、トロンとしている。でもぼくの目がトロンとしているのはいつものことなんじゃないかなぁ……ぼくはお父さんやお母さんやダイキくんからも、「ぼーっとしてる」ってひやかされているからなぁ……。

「じゃあユカちゃん、あいりちゃん。またあしたねえー」

「ぼく」は二人へえがおを見せ、手をふっている。

「女子なんかあいてにしなくてもいいんだよ」

「えへへ……」

「ぼく」はダイキくんにそう笑ってへんじをした。ぼくっていつもこんなにきもちわるいんだ……!


 ダイキくんとぼくは、同じマンションに住むおさななじみだ。ほいくしょもようちえんも同じだった。今では同じサッカークラブに入っている。だけどダイキくんは四年生のときからレギュラーで、ぼくは五年生の中で一人だけ、まだほけつだ。

 ぼくたちは、二人ともべんきょうができない。だけど、ダイキくんはスポーツだけはすごくとくいだ。うんどうかいでもいつもかつやくする。

 ダイキくんのかおはキツネみたいだけど、女子からはカッコいいと言われている。ぼくは色白でふにゃふにゃしているから、たまーに女子からかわいいって言ってもらえることはあるけど、「キモい!」と言われることのほうが多い。べつにモテたいって思ってないから気にしてないけどね。

 だからきのうのバレンタインデー、ダイキくんは五こもチョコレートをもらえた! ぼくはもちろんゼロだった。

 ぼくは男子からいじられることもある。

「へにゃへにゃしてんじゃねーよ」

 などとからかわれるのだ。

 でもそんなとき、いつもダイキくんがかばってくれる。ダイキくんが出てくると、ぼくをいじろうとしていた男子は、こわがってにげていく。

 だからぼくはいつもダイキくんにかんしゃをしているんだ。

 お母さんもそう言ってる。ぼくみたいなよわむしは、ダイキくんがいなかったら、学校でいじめられていたかもしれないね、と。

 ぼくのお母さんはダイキくんのお母さんとなかがいい。ほいくしょやようちえんのおくりむかえのときに友だちになったんだって。

 ぼくのお母さんはダイキくんのお母さんに会うたびに、

「いつもじゅんをかばってくれてありがとう」

 とお礼を言っているそうだ。するとダイキくんのお母さんは、

「え、そうなの? あのよわむしが?」

 とおどろいて、でも、大笑いするそうだ。

 ぼくのお母さんはその話をしたとき、

「ダイキくんが『よわむし』って、いったいどういうことなんだろうねぇ」

 と、ふしぎそうなかおをした。お父さんにもぼくにもさっぱりわからなかった。

「ぼくもダイキくんみたいに、ユカちゃんと言いあらそいができるようになりたいなぁ」

 ときどきぼくは、ダイキくんにあこがれることがあったけど、それだけだった。こんなふうにダイキくんの中に入りたいなんて、はつもうででおねがいしたことだって一度もなかったんだけどなぁ……。


 学校からマンションまでの帰り道。

 ぼくはダイキくんの中で、

「右手と右足をどうじに出して、ヘンな歩きかたをしろ!」

 というめいれいをしてみた。

 だけど、ダイキくんはちゃんと右手を左足を出して歩く。

 ぼくがダイキくんをあやつる? ことはできないみたいだ。

 せっかくダイキくんの中に入れたみたいなのにナ、つまんないな。

 うごかすことはできなくても、今のぼくなら、ダイキくんが本当は何をかんじているか、聞くことはできるのかなぁ?

 ダイキくんの「心」がどこにあって、今のぼくがそのどこにいるのかもよくわからないけど、とにかく、「耳」をすませてみた。

 聞こえる!

 ダイキくんはいつものとおり、このしゅうまつにおこなわれる、サッカーのしあいのことをずっとしゃべっている。

 ダイキくんがほんとにサッカーが好きで、サッカーを上手になりたいと思っていることが、はっきりとわかる。それだけじゃなくて、前にしあいでまけたときのくやしさや、自分のミスで相手チームがゆうりになったときのことを思い出して、こうかいしていることまでを、強くかんじることができる。

 いつもぼくは、サッカーの話をするときのダイキくんのほそいつり目が、少し大きくなって、きらきらとかがやくのを見ていた。

「心の中にはこんなにたくさんの気持ちが入りまじっていたんだなぁ……」

 そこまでサッカーにたいして「がんばろう!」っていう気がないぼくは、どうしてダイキくんがそこまでサッカーにこだわるのか、ますますわからなくなった。

「じゃあまたあとでなー」

 エレベーター。ダイキくんが先におりる。このあとまた小学校にもどって、サッカーのれんしゅうをするのだ。

「またねぇ」

「ぼく」はエレベーターにのこる。

 ダイキくんはマンションのろうかを歩く。

 ぼくは、ぼくからはなれて一人? になった「ぼく」が、家でどんなふうにすごすんだろうって、ちょっと心配になる。あ。きょう帰ってきたさんすうのテストは三〇点だったんだ! またお母さんからしかられるんだよなぁ……ダイキくんはあのテスト、何点だったんだろう? ダイキくんもしかられるのかなぁ?

 ダイキくんのお母さんは、やっぱりダイキくんとにて、キツネみたいなかおをしている。目がほそくてキツいかんじがする。だけどぼくのお母さんは、

「あっさりしてて男の人みたいな人よ。ほかのママ友みたいに、ネチネチとほかのお母さんの悪口を言うこともないし。とってもたよりになるわ」

 と言う。それだけのことかもしれない。

 でも、だから、ダイキくんのお母さんは、ぼくのお母さんよりも、おこったらきっと、ずっとコワいんだろうなぁ……ダイキくんのテストの点が悪くてしかられたら……ぼくが「ここ」で泣いたら、ダイキくんにぼくが「ここ」にいること、バレちゃうのかなぁ?

 だけど今までは、まだぼくが「ここ」にいることは、ダイキくんには気づかれてないみたいだ。

 それにしても。なんでこんなヘンなことになっちゃったのかなぁ?

 あいりちゃんも、ユカちゃんの中に入っちゃってるのかなぁ?

 どうせ「入りこむ」んだったら、ユカちゃんの中に入りたかったなぁ……なんちゃって。


 ダイキくんはマンションのかぎをあける。いちばんに家へ帰ってくるのはダイキくんで、これはぼくと同じなんだな。

 ダイキくんはうちに入るとダッシュする。こんいろのランドセルをせなかからおろしながら、へやに走っていく。

 ダイキくんは早くサッカーのれんしゅうに行きたくってしかたがないんだ。学校へきて行っていたふくをぬぐ。ぬいだふくはへやにぬぎっぱなしにする。ぼくとおんなじだぁ! そうしてすぐに、学校のサッカーチームのれんしゅうぎをきる。

 それだけをすませて、またうちの中をダッシュして、げんかんを出た。

 エレベーターで下に行く。かいすうひょうじが下がっていくのを、あしぶみをしながら見上げている。

 ぼくには、おやつよりもサッカーがだいじっていうことがしんじられない。ダイキくんの中でぼくはとってもおどろいているんだけど、ダイキくんにはそれはつたわらないみたいだ。よくわかんないけど、ダイキくんにバレないのはまちがいないみたいだから、まあいっか。


 ダイキくんは、マンションの前のうえこみの石にこしをかける。ぼくが下りてくるのをまっているのだ。

 ぼくは「ぼく」が何をしているのかをかんがえる。

 きっといつもみたいに、いや、いつもいじょうに、のんびりとへやにはいってランドセルをつくえの上におき、だいどころにもどって、お母さんがよういしておいてくれたおやつ――クッキーかおだんごかな――と、れいぞうこからぎゅうにゅうパックをとりだして、マグカップにそそいで――きっとぎゅうにゅうをこぼすんだ!――、でんしレンジであたたまるのをまつ。でんしレンジが「プーン」となったら立ち上がる。でもあたためすぎてマグカップをもてなくて、「アチッ」と手をひっこめるんだよ。ゆっくりとおやつをたべて、少しぬるくなったぎゅうにゅうをのんで。それからのそのそときがえる。

「おまたせー」

 目のトロンとした「ぼく」が笑う。

「よっ! 行こうぜ」

 ダイキくんて、いつもこんなにながいあいだ、ぼくのことをまっていてくれるんだな。こんなにもダイキくんは、早くサッカーをしたくてたまらないのに! たしかにいつもぼくはダイキくんをまたせていた。だけどダイキくんは「二十分もまってたんだぞ」とか「何トロトロしてんだよ」とか、ぼくにもんくを言ったことは一度もない。

 ぼくは、もし今のぼくがもとのぼくの中にもどったら、もうダイキくんをまたせないようにしようと思う、けど……もとにもどっちゃったら今のこんな気持ちなんかすっかりわすれちゃって、けっきょくなんにもかわんないかもしれないね。


 ダイキくんは、

「さむいから、学校まで走ろう」

 と言う。「ぼく」が何かを言う前から、もう走りはじめている。

「ぼく」はダイキくんにはへんじをせず、というか、へんじをするすきがなくて、ダイキくんをおいかけるように走り出す。

 ダイキくんは「ぼく」がついてこられるように、ペースをおとしていることが、今のぼくはわかる。「ぼく」はいっしょうけんめいに走っても、このはやさについていくのがやっとなのだ。

 学校へつくまでのみじかいあいだにでも、ダイキくんが、早くサッカーをしたいと強くかんじていることはよくわかった。

 ぼくとちがってダイキくんは、おやつよりもサッカーがだいじなんだなぁ……そりゃあ四年生からレギュラーにえらばれてとうぜんだよ……。


 校舎と平行して、運動場にはサッカーコートがある。校舎の前のかだんには、二、三人ずつの女子が、はなれてなんくみかすわっている。ダイキくんは女子たちをいっしゅんだけ見た。

「ダイキくーん! がんばってぇー!」

 ひとくみの女子が、声を合わせてさけぶ。

 するとべつのばしょにあつまっている女子も、同じようにさけぶ。

 かだんにすわっている女の子たちは、みんなダイキくんのファンなのだ。

 ダイキくんは女子にはへんじをしない。もうそちらを見ることもしない。

 今のぼくは、女子からのせいえんが自分に向けられているような気がする。女子からおうえんしてもらえるって、こんなに気持ちがいいものなんだ! ぼくははじめて「モテるっていいなぁ」と、ダイキくんをうらやむ。

「ぼく」は、と見ると、運動場でぼーっとつったっている。なかまたちがパスのれんしゅうをしたり、リフティングをしたりしているのを、ぼんやりとながめている。きっと女子たちがダイキくんに声をかけていることにも気づいていないんだろうなぁ……。

 ぼくはダイキくんが女の子たちに、「ありがとう」とだけでも言ってあげたらいいのに、とつたえたいけれど……「ここ」でぼくがどれだけ強くめいれいをしても……やっぱりダイキくんにはつたわらないのだ……。

 ダイキくんは女子たちからはげましてもらうことを、べつにいやがってはいない。ちゃんと聞いてはいる。だけどよろこんでもいない。ダイキくんの「心」の中でいちばん強い気持ちは、やっぱり、

「早くサッカーがしたい! もっと上手になりたい!!」

 ということだった。

 ダイキくんはボールをボールかごから一つ取った。

「じゅん。パスれんしゅうしようぜ」

 ダイキくんは、校舎からいちばんはなれた、コートのおくへとかけ出した。これ以上女子からさわがれるのはめんどうだとかんじているのだ。

 ダイキくんみたいに毎日何度もさわがれていたら、こんなふうにめんどうにかんじるようになるのかなぁと、ぼくはかんがえた。ぜいたくななやみだよ、と言ってあげたくなる。

「ぼく」は、

「はぁーい」

 と、やっぱりとろとろと、ダイキくんのあとをついて来る。

「こんなんじゃあモテるわけないよなぁ」

 ぼくはにが笑いをした。


 ウォーミングアップがおわったら、レギュラーチームとじゅんレギュラーーチームに分かれて、れんしゅうじあいをする。「ぼく」は、しどうをする先生から、

「きょうのじゅんはちょうしがわるい」

 としかられて、じゅんレギュラーのチームにも入れてもらえなかった。見学。ほけつのほけつだ!

 ダイキくんはもちろん、レギュラーチームのメンバーだ。きょうもちょうしがいい!

 ダイキくんはコートを走り回る。かんだかい声でせんぱいにしじを出し、パスをおくり、シュートを決める。せんぱたちからも、

「ナイスゴールー!」

 と、かたをたたかれて笑い合う。

 校舎の前のかだんにすわる女子たちがはくしゅをしているのも、ダイキくんはちゃんと聞いている。だけどそっちを見ることはない。

 そのときぼくは、ダイキくんは何かをひっしでガマンしていることに気づいた。モテたいことをガマンしているのかなぁ?

 そうしてぼくは、

「サッカーでかつやくするってことは、こんなにも気持ちのいいことなのか!」

 と、シュートを決めるかいかんを、はじめて知った。いっそダイキくんと、すっかり入れかわることができたらいいのになぁと思う。ぼくががんばろうとは思わないんだよネ!

 だけどぼくはきづく。

 ダイキくんは笑っているときでも、心の中はあんまりうれしそうじゃない。よろこんではいるけれど、何か、まんぞくはしていない。

 どうしてなんだろう……?

 女子にモテて、サッカーが上手で。どうしたらダイキくんはまんぞくするんだろう? どうしてまんぞくしないんだろう……? 何をそんなにガマンしてるんだろう? どうして……?

 ぼくはダイキくんの中にいるのに、それをちょくせつ聞くことができない。ぼくにしてはめずらしく、なんだかむしゃくしゃしてくるよ……。


 サッカーのれんしゅうがおわってマンションにもどる。たいようはしずみかけていて、あたりはもううすぐらい。

 学校から帰ったときのように、ダイキくんと「ぼく」は、エレベーターの中でわかれる。

 ダイキくんはこんどは走らない。

「さすがにつかれたのかな?」

 ぼくはなんとなくそうかんがえる。

「ただいまぁ」

 ダイキくんがうちのとびらをあける。サッカーをしていたときとか、ふだん教室にいるときとか、ユカちゃんと言いあらそいをしているときとかとはぜんぜんちがう、元気のない声だ。なんで? 家に帰ってきたっていうのに。

 だれからもへんじはない。聞こえなかったのかな? ぼくんちならすぐに、お父さんとお母さんの明るい声が聞こえるのにな。

 リビングには男の人が二人いる。ダイキくんのお兄ちゃんたちだ! ぼくは、ダイキくんにお兄ちゃんがいることをわすれていた!

 二人とももう高校生だ。十歳以上年上だ。ダイキくんのお兄ちゃんたちとあそんだことは、たぶんないと思う。

 今二人のお兄ちゃんたちは、大きなテレビがめんの前で、アクション系のゲームをしている。青いパンツをはいた黒人の男の人のCG画像と、赤い中国のドレスをきた女の人とが、なぐったりけったり、かくとうぎのわざをしている。その前のソファで、お兄ちゃんたちが休みなくコントローラーをそうさしている。

 ダイキくんはお兄ちゃんたちには声をかけないし、お兄ちゃんたちもテレビのがめんから目をはなさない。

 キッチンにはおばちゃんがいるかもしれないけど、ダイキくんがそっちを見ないから、おばちゃんがいるのかいないのかはわからない。おじちゃんはもう帰ってきているのかなぁ? やきんのあるおしごとだ、って、ダイキくんが話してたことがある。きょうはどうなんだろう?

 ダイキくんはうつむいたまま、自分のへやに入る。あかりをつける。きがえもせずに、白いシーツをかけたベッドの上へすわる。

「はぁ……」

 大きなため息をつく。

 ダイキくんがため息!? ダイキくんの心は、家に帰ってきてからゆううつそうだ。サッカーをしていたときのような、きらきらした楽しさは、まったくない。

 どうして?

 ぼくはダイキくんとはおさななじみで、ダイキくんとは同い年だけど、お兄ちゃんみたいに思ってきた。ダイキくんのことはなんでも知っているつもりだった。

 だけど。

 ダイキくんがため息をつくなんて、そうぞうもしたことがなかった!

 ダイキくんのことを、知っているようで、ぜんぜん知らなかったのかもしれないナ……。

 どうしてため息なんてつくんだろう?

 ぼくは、ダイキくんがつらい思いをするのを「ここ」でかんじるのは、いやだなと思う。ぼくのほうが泣いてしまうだろうなぁ……。


「ダイキィ! ごはんよ。出てきなさい」

 ダイキくんのお母さんの声だ。ぼくのお母さんが言うように、低い声で、声だけを聞いても男の人みたいだ。

「ふぅ……」

 ダイキくんはまたため息をつく。

 立ち上がる。

 へやのあかりをけす。

 キッチンへ向かう。

「お前まだれんしゅうぎのままかよぉ」

 大きいお兄ちゃんが言う。とても低い声だ。

「あいかわらずトロいよなぁ」

 にばんめのお兄ちゃんは、ダイキくんをひやかしている。それは、ぼくをいじろうとするクラスメイトのくちょうとそっくりだ!

 二人のお兄ちゃんはかおを見合わせて笑っている。

「このあと洗たくするから、早くきがえなさい」

 ダイキくんのお母さんが言う。

「かあちゃん。ビール」

 ダイキくんのお父さんだ。やきんじゃないみたいだね。

「それくらい自分でしてっていつも言ってるでしょ」

 ダイキくんのお母さんはいすにすわっていてうごこうとしない。

「じゃあダイキ、立ってるついでに取ってくれよ」

「はい」

 ダイキくんは小さな声で答える。

 れいぞうこのとびらをあけ、ドアポケットに入っているかんビールを一つ出す。おじさんにわたす。

「ダイキ。サッカーはどうだ?」

 おじさんが笑う。

「うん。まあまあ」

 ダイキくんはいすにすわる。

「何がまあまあだよ。なあ」

 大きいお兄ちゃんは、口の中に入れたせんぎりキャベツを、ジャグジャグとかんでいる。

「そうだよ」にばんめのお兄ちゃんはにやにやしている。「オレたちは二人とも三年のときからレギュラーだったんだぜ。なのにこいつだけ、レギュラーになったの四年になってからだったじゃねーか。サイノーねーんじゃねーの?」

「サイノーのねーやつはとっととやめちまえ」

 大きいお兄ちゃんとにばんめのお兄ちゃんは大笑いをしている。

 するとおばちゃんが、

「二人ともやめなさい。あんたたちがいたころとは、メンバーのレベルがちがうかもしれないでしょう? この子はこの子でがんばってるんだから、ダイキをからかうのはやめなさい。それにこんな子でも、せいせきはあんたたちよりは、ちょっとはマシなんだからね」

 と、お兄ちゃんたちをしかった。

「いいよ」ダイキくんの声は口の中でくぐもっている。「兄ちゃんたちにかなわないのはほんとのことだから」

 ダイキくんはプラスティックの青いおはしを持つ。テーブルのまんなかにおかれている、とりのからあげにはしをのばそうとする。

 と。

「あ、これ、オレが先にくおうとしてたヤツだぜ」

 大きいお兄ちゃんがダイキくんの手のこうをはたき、からあげを自分のおさらに取ってしまった。

 ダイキくんが次のからあげを取ろうとすると、にばんめのお兄ちゃんにうばわれた。

「なんでだよぉ! オレにもくわせろよぉ!!」

 ダイキくんは泣いている。

 おばちゃんはお兄ちゃんたちをしかっているが、おじちゃんは、

「オトコってのはこういうことをけいけんして強くなっていくんだ。たいして気にすることじゃない」

 と笑ってかんビールを飲みほし、「かあちゃんビール」

 と言う。

「自分で取ってって言ってるでしょ。こんなのいじめじゃないの。とうちゃんは平気かもしれないけど、ダイキのこともちょっとはかばってやったらどうなのよ!」

 おばちゃんはすごくはらを立てているみたいだ。

「はいはい」

 おじちゃんは立ち上がり、自分でれいぞうこへ行く。

「もういい!」

 ダイキくんは持っていたプラスティックのおはしを、テーブルの上へいきおいよくおいた。ガヂャンと、まるでおはしがくだけるような音がした。

 ダイキくんはへやへもどった。あかりをつけない。ベッドへとびこんで、まくらに向かってさけぶように泣いた。

 そんなダイキくんの心の中で、ぼくもとってもつらくなって、やっぱりなきさけんだ。

 それよりも気になっていたのは……。

「ダイキくん。おやつもたべなくて、ばんごはんもたべてなくて、おなかすかないの?」


 だいきクンノ涙ト、ボクノ涙トガ、トケアッタ……。


   ***


 わたしの目の前には、「わたし」がいる。くせのあるくろいかみのけを、おさげにしている。

 放課後の教室。ダイキくんとじゅんくん、ユカちゃんとわたしの四人しかのこっていない。

 あれ? じゅんくんの目がヘンだ。ふだんからぼんやりしているけど、いつもよりぼーっとしてる。

 あ、でも。それを言うなら「わたし」の目もヘンだよ。

 あれ? どうしてわたしが「わたし」を見ることができるの?

「あいりも。もうゼッタイにおかしなこと言い出さないでよね」

 ユカちゃんの声が、男の人の声みたいに低く聞こえる。いつもはそんなことないのに。

「うん……わかったぁ……」

「わたし」がへんじをしている。わたしの声は、ユカちゃんのばあいとはぎゃくで、いつもより高く聞こえる。

 わたしは、「イヤ!」とさけびたくなる。

 わたしは自分のかおが大っきらいだ。ユカちゃんみたいにかおの色も白くないし、目も大きくない。わたしがユカちゃんの中でいちばん好きなのは、ちょっとちゃいろっぽい、長くてきれいなかみのけなんだよね。

 ユカちゃんのお父さんは社長さんをしている。お金持ちだ。だからいつもおしゃれをしている。きょうも長いワンピースをきている。ユカちゃんはびじんだから、そういう服がとってもよくにあうんだ。

 それとくらべたらわたしは、えりがよれて、色もうすくなったトレーナーをきている。もともとはあざやかなきいろだったけど、なんかいも洗たくしてもらったから、もう白っぽくなってしまっている。だからって、ユカちゃんがいつもきているみたいなおしゃれな服をきても、わたしにはぜったいににあわないこともわかっている。だからますますわたしはユカちゃんがうらやましいんだ。

 それにしても。わたしは今どこにいるの? どこでもいいから「わたし」が見えないばしょに行きたい!

「じゃあユカちゃん、あいりちゃん。またあしたねえー」

 いつもよりぼーっとしているじゅんくんが、手をふって教室から出ていく。ダイキくんもさって行く。

「アイツらと帰り道はぎゃくだけど、げたばこんトコでまた合うとイヤだから、もうちょっとのこっていようね」

 ユカちゃんのふだんより低い声が言う。

「そうだよねえ」

「わたし」が少し高い声でへんじをしている。

 教室にのこっていたのは四人だった。男子二人は帰って行った。そしてわたしには「わたし」が見えている。ということは、わたしは今ユカちゃんの中にいるってこと?

 そう言えば。声って、自分で聞こえるよりも、ほかの人には高く聞こえるって、テレビかなんかで見たような気がする!

 ……。

 やっぱり、わたしは今ユカちゃんの中にいて……じゃあ「わたし」は? いつもどおりじゃあなさそうだけど、ユカちゃんのことばにはちゃんとへんじをしている。

 よくわかんないけど、わたしのほとんどがユカちゃんの中に入りこんで、わたしののこりのいくらかが、もとのわたしの中にのこっている、っていうことなのかな。

 よくドラマやえいがでは「入れかわり」っていうのがあるよね。どうせなら「完全に入れかわり」したかったな。だってユカちゃんちはお金持ちで、お父さんはハンサムでお母さんは美人! うちのお父さんもお母さんも、ユカちゃんたちにはあこがれているんだ。

 なのに……。なんでこんなちゅうどはんぱな「入りこみ」になっちゃったのかなぁ……つまんないなぁ……。

 もしかして、「わたし」の中にもユカちゃんが入りこんでるの?

 いやいや。それはないよ。だって、もし今の「わたし」の中にユカちゃんが入りこんでいたら、「わたし」はふだんよりシャキっとするはずだもん。

「そろそろいいかな」ユカちゃんはひとりごとみたいに言う。「あいり、帰ろ」

「うん」

 ああいやだ! 早く「わたし」を見ずにすむ所――ユカちゃんの大きな家に行きたい。

 ユカちゃんと「わたし」は教室を出て、げたばこでくつをはきかえる。ユカちゃんとは近所にすんでいる。だけどユカちゃんの家は大きないっこだて、わたしの家はマンションの小さなへやだ。このあたりにいっこだての家を持つことができるって、ものすごいお金持ちなんだよって、子どものころからお母さんに言われてきた。ユカちゃんとはようちえんからいっしょだけど、クラスの中でもいっこだての家に住んでいるのは、いつもユカちゃんだけだった。ほかの子はみんなマンションにくらしていた。だからお母さんどうしも、ユカちゃんの家とはくらべてもかなうはずがないねって、あこがれにしているんだよ。

 ユカちゃんは、男の子とでも平気でけんかをする、まけんきの強い女の子だ。

 美人だし、いつもいい服をきているから、どこから見ても「おひめさま」なのに、どうしてそんなせいかくになったのか、わたしにはよくわかんない。

 もう一つよくわかんないのは、そんなユカちゃんが、どうしてわたしなんかといつもいっしょにいてくれるかってこと。ようちえんも同じだった子はほかにもいる。だけど、小学校二年生で同じクラスになったときも、今、五年生で同じクラスになっても、ユカちゃんはいちばんに、わたしに声をかけてくれた。同じクラスになったらかならず、ユカちゃんはわたしをえらんでくれているみたいなんだよね。それがわたしにはじまんでもあるんだけど……どうしてわたしなんかとなかよくしてくれるんだろう? わたしは美人でもないしかわいくもないし、あたまだって良くないのにナ。

 そう。ユカちゃんはべんきょうもできるの! でもそれもすんごくまけんきが強くって、百点を取れなかったらみんなの前で大声を上げて泣くんだよ! わたしなんてめったに百点なんて取れなくて、だいたい八十点なのに。

 ユカちゃんはやさしいところもあるんだよ! わたしがべんきょうでわからないことがあったら、ちっともバカにしないで、しんせつにおしえてくれる。それはわたしだけじゃなくて、ほかの子にたずねられても、ちゃんとその子がなっとくするまで、ていねいにおしえてあげるんだ。だからユカちゃんはよくクラスの委員長にえらばれる。ほかのクラスでは委員長は男子で、女子は副委員長ってことが多いんだけど、ユカちゃんは委員長なんだよ。

 しっかりしてて、まじめで、美人で、べんきょうもできて、やさしいし。みんながなかよしになりたい、って思っているユカちゃんが、どうしてわたしなんかといっしょにいてくれるのかなぁ。

 これもドラマとかえいがのはなしだけど、「ひきたてやく」ってのがあるよね。ユカちゃんにとってのわたしって、「ひきたてやく」なのかなぁ? ユカちゃんとわたしがいっしょにいたら、ぜったいみんなユカちゃんのほうがきれいだ、って思うし、ユカちゃんの美人さがひきたって見えるよね。

 でもわたしは、ユカちゃんがそんな子じゃないって思う……思いたい。けど……わかんない……。


 帰り道。

「あいりってさぁ」ユカちゃんはうつむいている。白いスニーカーにむすんだピンク色のくつひもが見える。「ダイキくんのこと好きなの?」

「でも、ダイキくんは、ユカちゃんのことが、好きだよ」

 何このしゃべりかた! いつもはもうちょっとマシなんだろうけど……イライラする!

 ユカちゃんはどう思っているんだろう? ユカちゃんの気持ちをのぞけるのかな? ためしてみよう。

 おお!

 まるでねむるときにだっこしてるぬいぐるみがしゃべっているみたいに、ユカちゃんがかんじていることが、はっきりとつたわってくる!

 ユカちゃんはわたしの変化には気づいてはいないみたいで……。

「今はわたしがしつもんしてるの! あいりはダイキくんのことが好きでしょ?」

 しつもんにこたえないことで、わたしにたいしておこっている。めずらしいナ。

「好きだよ。でも、ユカちゃんと、ダイキくんは、両思いだから、あきらめるよ」

 うわぁ! これまでユカちゃんにもナイショにしてたことなのに、どうしてよりにもよってこんなときにバラしちゃうのよぉ! 「わたし」のバカ!! ぼんやりしてさえなかったら、もっと上手にごまかせたかもしれないのにぃ!

「ダイキくんの気持ちなんてわかんないじゃない」

 ユカちゃんはますますはらを立てている。

「わかるよお」

 ああ気持ち悪い! わたしのかおって、ほんとにブサイクだ! ユカちゃんはいつもこんなかおを見ててイヤにならないのかなぁ? 自分がとってもきれいな分、よけいにふゆかいにかんじるんじゃないかなぁって思うんだけど……美人の気持ちって、ブスにはわかんないよね。

「もしアタシがあいりと同じ男の子を好きになったら、アタシ、あきらめるからね」

 ユカちゃんはすなおだ。そして気持ちがとてもまっすぐで強い。

「だけどさぁ、ダイキくんは、ユカちゃんのことが、好きなんだよ。それでも、あきらめるの? ダイキくんは、しあわせに、なれなくても、いいの?」

「ダイキくんよりあいりのほうが大事なんだもん」

 ええ!!

 そこまでわたしのこと、大事な友だちだって思っててくれたの!? わたしのほうがはくじょうなようにかんじられてくるよ……。

 でも、それはユカちゃんのほんねだった。ユカちゃんはやっぱり、うそをつくような子じゃないことが、ユカちゃんの中に入ってまだ三十分もたたないけど、はっきりとわかった。

 ユカちゃんは、

「もういい!」

 と大きな声で言って、「わたし」をのこし、家へと走りはじめた。

 とちゅう、ユカちゃんは泣き出した。はじめはすすり泣きだったのが、だんだんと声が大きくなって、家の前につくころには、赤ちゃんみたいに泣きじゃくるようになった。

 ユカちゃんはただ、とてもかなしんでいた。

 わたしにはそれしかわからなかった。

 だれから見ても「しあわせなおひめさま」なユカちゃんが、どうしてわたしなんかとのゆうじょうのために、こんなにかなしむんだろう?


 ユカちゃんは家の前で立ちどまる。うわぎの右のポケットから、白いはんかちを取り出す。そのはんかちのふちはレースになっている。左のすみには赤いばらの花のししゅうがしてある。ユカちゃんのお母さんは、ししゅうの先生をしている。お母さんがさしてくれたのかな?

 はんかちでなみだをぬぐう。

 大きくしんこきゅうをする。

 ユカちゃんは泣いたら目のまわりが赤くなって、それがなかなか取れない。テストで百点を取れなくて泣いたあと、次のじゅぎょうになっても、目のまわりに赤みがいつものこる。ユカちゃんにもそれはわかっているんだろうね。だけど、家に帰るのがあんまりおそくなったら、お母さんにしんぱいされたりしかられたりするかもしれないもんね。

「ただいまー」

 ユカちゃんはぶあつい木のとびらをあける。元気な声を出す。

「お帰りー」

 家のおくから、明るくて大きな声がする。

 ユカちゃんはぬいだくつをげたばこにかたづける。

 げんかんマットの上にならんだ、ピンク色のスリッパをはく。

 五、六歩でかいだんの下につく。スリッパをぬいで、かいだんをのぼりはじめる。

 へやに入ると、ピンク色のランドセルをつくえの上におく。つくえの上のたなに、ランドセルから出した教科書とノートをかたづけていく。れんらくちょうを出す。宿題がある科目の教科書とノートをたなから出す。いすにすわって宿題をしはじめた。

 ユカちゃんは字もきれいだ。ようちえんのころからおしゅうじをならっていると言っていた。ほかにもお花やお茶もならっているらしい。家にはグランドピアノがあって、ピアノの先生が家に来て、ピアノをおしえてもらっているとも聞いたことがある。きょうはならいごとはない日なのかな?

 さんすうの宿題をおえて、漢字のれんしゅうをはじめようとしたとき、

 トントントン

 へやのドアが三回ノックされた。

「はい」

 と答えながらユカちゃんは、つくえのひきだしからかがみを取り出す。小さな四角形にうつった顔は、まだ目のまわりが少し赤い。

「おやつ食べない?」

 ユカちゃんのお母さんだ。

「食べるぅ」

 ユカちゃんがうれしそうにへんじをすると、ユカちゃんのお母さんが入ってきた。

 ユカちゃんがべんきょうをしているつくえのうしろ、ひろいへやのまんなかに、こたつがある。その上に、おばさんはおぼんをおく。ティーカップが二つのっている。おばさんはティーポットから紅茶をそそぐ。ふちが金色にかがやいているおさらには、やき色がそろわないクッキーがもってある。手づくりなのだ! 全部星の形をしている。

 ユカちゃんがこたつに向かう。せいざをする。ユカちゃんはあしも長いんだ。女子が、

「せいざをしないとあしが長くなるって聞いたことがあるから、きっとユカちゃんって、せいざなんてしたことがないんだよ」

 と言っていたことがある。せいざをしてもしなくても、ユカちゃんはあしが長くなるように「せっけい」されて生まれてきたんだよ!

「また失敗したの?」

 ユカちゃんは、ユカちゃんとよくにたおばさんに笑う。

「そう。おかしづくりはユカのほうが上手ね」

 おばさんもほほえむ。

「おかあさんのクッキー、見た目はヘタだけど、あじはアタシが作るよりずっとおいしいよ」

「ありがとう」

 おばさんとユカちゃんは、それっきり話をしなくなった。しずかなおやつの時間だ。

 わたしの家とは大ちがいだなと思う。

 わたしのりょうしんはともばたらきだ。お母さんといっしょにおやつをたべるということはほとんどない。おやつをたべるときはだいたい一人か、たまにおとうとといっしょになる。おやつといってもてづくりじゃない。スナックがしとかおかきとかもなかとか、スーパーで売っているテキトーなものだ。のみものだって、れいぞうこから自分でえらんでかってにのむ。わたしはぎゅうにゅうがキライなのに、お母さんがりんごジュースをかいわすれていて、のめるものがぎゅうにゅうしかなくて、しごとからかえったお母さんと、けんかをすることがある。

 この家ではそんなくだらないことは起きないんだろうなぁと思う。わたしのかぞくとくらべたら、あまりにもじょうひんだ。本当に「女王さまとおひめさま」みたいだもの。

 このきれいなおばさんが、クッキーをやいたり、なべにあぶらをはってあげものを作ったりするようすを、わたしにはそうぞうすることができない。黒いワンピースに白いエプロンをした「メイドさん」が、家のようじはぜんぶすませてくれると言われたほうが、本当なんじゃないかなとかんじられるよ。

「泣いたの?」

 さすがにおばさんは、まだ少しだけ赤い、ユカちゃんの目もとに気がついたようだ。

「うん。あいりがさびしいことを言うから……おこっちゃったらかなしくなった」

 ユカちゃんはほんとうにすなおだ。

「あした、ちゃんとあやまったらわかってくれるわよ」

「あいりだけだよ。アタシのこと、ぜんぜんとくべつあつかいせずに友だちでいてくれるの」

「そうね。ようちえんのころからユカはずっとあいりちゃんが大好きだったものね」

「うん。ほかの子は、アタシんちがちょっと金持ちだから、って、おせじをいったりからかったり、いやみを言う子だっていた。だけどあいりは一回もそんなことなかった。あいりだけだよそんなの。当たり前のことをできる子が、どうしてあいりしかいないの? それってすごくヘンだと思う」

 言いながらユカちゃんはまた泣き始めている。

 わたしはおどろいていた。ユカちゃんをとくべつあつかいしていた子がいっぱいいたなんて! わたしがぼーっとしていて気づかなかっただけなんだろうけれど……ユカちゃんはかしこいから、おせじとかいやみにもびんかんで、イヤな思いをたくさんしていたんだなぁ。それでわたしをえらんでくれていたのか……ユカちゃんが言うみたいに、わたしは当たり前のことをしていただけなんだけどなぁ……。

 そう考えたら、わたしもかなしくなってきた。

 わたしが「ここ」で泣いたら、ユカちゃんにわたしが「ここ」にいることがバレちゃうのかなぁ?

 だけど。ユカちゃんのこれまでのさびしさやくやしさを思うと……泣かずにはいられなくなった。わたしはユカちゃんよりはげしく泣いた。どうやらユカちゃんには、わたしが「ここ」にいることはバレないようになっているみたいだとわかった。

「きょうはお父さん、帰ってくるよね?」

 泣きやんだユカちゃんがおばさんにきく。

 ユカちゃんの心の中には、うたがいやにくしみや、つらさが入りまじっている。

「知らないわ」

 おばさんのしゃべりかたが「女王さま」のようではなく、まるでドラマで見る、悪い役のじょゆうさんみたいになった。

「だってもう一週間も帰ってこないんだよ。お母さん、はらが立たないの?」

「おこってるわよ。でもでんわにも出ないんだからどうしようもないでしょ。お金だけはあるんだから、もんくはないわ」

 おばさんはおぼんを持ち上げ、ユカちゃんのへやから出て行った。

 ユカちゃんの心には、いかりだけがのこっている。

 おじさんが一週間も帰ってこなくて、おばさんがかけたでんわにも出ないの? 「もんくはない」ってどういうこと??

 美男美女のおじさんとおばさん。そして美人の一人むすめのユカちゃん。

 そんな、「王さまの家」のいんしょうが、ムンクとかいう人がかいたヘンな絵みたいに、ぐらぐらにゆがんで見えてきたよ……。


 宿題をおわらせたユカちゃんは、つぎの日のじゅぎょうの用意をしてから、ピアノをひいた。おばさんが「ばんごはんよ」と声をかけに来るまで、ずっと同じ曲をひいていた。ユカちゃんはその曲をかんぺきにひけるようになりたいと思っているのがわかった。ひくたびにまちがうところはへっていった。たまに、前にはちゃんとひけたところでまちがうと、ゆかちゃんは十本の指をけんばんにたたきつけて、いらだちやくやしさをおもてに出した。

「これがユカちゃんの強さなんだなぁ」

 わたしのユカちゃんへのあこがれは、そんけいにかわっていった。これだけのどりょくをするから、「かんぺきなユカちゃん」になれるんだなぁ、でもどうしてこんなにがんばれるんだろう?

 ユカちゃんの心にはときどき、さびしさが浮かぶ。そんなときユカちゃんは大きく何度も首を横にふる。イヤな思いをふりはらおうとしているようだ。ピアノにむちゅうになることで、イヤなことをかんがえないようにしている、ってことかもしれないなぁ……。

 ばんごはんのときは、おばさんもユカちゃんも話をしない。

 ごはんがすむとユカちゃんはへやにもどる。つくえにむかってしょうせつをよむ。やっぱり、よけいなことをかんがえないように、ユカちゃんは本にしゅうちゅうしている。おばさんから「おふろに入りなさい」と言われるまで、ユカちゃんはどくしょをした。

 ユカちゃんがおふろから出ても、おじさんが帰ってきたようすはない。ユカちゃんは、キッチンでしんぶんを読んでいるおばさんに、

「おやすみ」

 とあいさつだけして、またへやにもどる。すぐにベッドに入った。


 ユカちゃんはすぐにねむった。

 その少しあと、ドアチャイムが鳴った。

 二階のユカちゃんのへやへも、げんかんでの声がとどく。

「オレのかお、わすれたのかぁ!」

「みちにまよったの?」

「なんだとぉ!」

「あんまりひさしぶりだから、みちをまちがえてこんなにおそくなったのかと思ったのよ。そんなによってるんならあちらにとまったままでよかったのに」

「よっぱらったおかげでオレはお前らのことを思い出してかえってきてやったんじゃねえか。ありがたく思え、このクソ女ぁ」

「わたしはずっと、お金さえ入れてくれるなら二度と帰って来てくれなくてもけっこうって言っているでしょう。あなたのかおなんて見たくないし、ユカだってあなたのことなんかもうわすれてるわよ。あなただって、ユカのことよりあちらの男の子のほうがかわいいんでしょう」

 どぉーんと音がする。だれかがたおれたみたいだ。

「上がって来ないで、このよっぱらいぃ!」

 おばさんがさけぶ。

 ユカちゃんの心に、いかりとにくしみとくやしさと、さびしさとかなしみがあふれる。

「ユカちゃんをこれ以上泣かさないで!」

 わたしはさけんだつもりだけど、「ここ」にいるわたしは心だけ。声を出すことはできない。

 ユカちゃんは泣き始める。

 大きく一度はなをすすって、ユカちゃんはベッドから出る。かいだんをおりる。

「お母さん」ユカちゃんは、げんかんでおじさんの前にたちはだかっているおばさんへ、うしろから声をかける。「その人、上げてあげてもいいんじゃない?」

 おじさんは、げんかんでしりもちをついている。かおが赤黒い。大きくこきゅうをするたびに、かいだことのないにおいがする。おさけのにおい? とてもくさい。

「ユカはゆるすの?」

「ゆるすわけないでしょ。だけどこんなじょうたいのこのおじさんを、こんなにさむいよるにおい出して、のたれじにでもされたらあとあじがわるいじゃない」

「ユカ! それが父おやにたいすることばか! お前はふだんユカにどんなしつけをしてるんだ」

「お母さんはちーっともわるくないわ。アタシがこんな子になったのはアンタのせいだって、早くじかくしてよね。ねる」

 ユカちゃんはそれだけを言って、かいだんをのぼった。

 ベッドにもぐる。

 一階からはおじさんとおばさんの話し声が聞こえる。大きくなったり小さくなったり。

 ユカちゃんは、かるくてやわらかくてあたたかいふとんにもぐったまま泣いた。

 わたしにはやっと、ユカちゃんがわたしと同じ子を好きになったらユカちゃんがあきらめると言ったわけが、わかったような気がした。わたしもかなしくなって、ユカちゃんといっしょに泣きつづけた……。


 ゆかチャンノ涙ト、ワタシノ涙トガ、トケアッタ……。


   ***


 あれ。このきいろいぬいぐるみ……。

 やったぁ! ぼくだ。ぼくはぼくにもどったんだ!

「おはよー」キッチンへ行くと、お父さんとお母さんがいる。「きのうのぼく、ヘンじゃなかった?」

「ふつうだったよ」とお父さん。

「いつもどおりぼーっとしてたわよ」とお母さん。

 そうか、もともとぼーっとしてて良かった。ん? 良かったのかなぁ……?

「いそがないとまたダイキくんをまたせるわよ」

「あ、ほんとだ」

 ぼくはめずらしくいそいでごはんをたべ、きがえた。ランドセルをせおおうとして、時間わりをそろえていないことに気づいた。

「やっぱりきのうのぼくはぼーっとしてたんだ!」

 いやいや。よくあることだ。

 エレベーターをおりる。うえこみの前にダイキくんがいる。

「よお」

 と笑うダイキくんに、

「きのうばんごはんたべた?」

 ぼくはたずねずにはいられなかった。

「ん? くったよ」

「いつ?」

「よなか」

「ふーん」

「なんだよぉ」

 ダイキくんは本当に、きのうのゆうがたからねむるまでのあいだ、ぼくが心に入りこんでいたことに気づいてないんだな。

 いつもダイキくんは、いえでつらい思いをしても、何も言わずに明るくしてる。つらい気持ちがわかるから、強くてやさしくしてくれるんだな。いいヤツだ。

 ぼくが何もしゃべらないでいると、ダイキくんは歩き出す。またサッカーの話を始める。お兄さんたちにまけたくないからなんだなということがわかったら、ぼくもあの女子たちといっしょに、ダイキくんをおうえんしたくなっている。

 校門の前で、向こうから来るユカちゃんとあいりちゃんと出会った。

「ねえ聞いてよー」ユカちゃんはダイキくんに言う。「あいりがヘンなこと言うんだよぉ。きのうのあいり、アタシの中にいたんだってー。わけわかんないよぉ」

 ユカちゃんはにが笑いをしている。そりゃあかんたんにはしんじてもらえないよね。でもやっぱり目がトロンとしていたあいりちゃんは、ユカちゃんの中に入ってたんだなぁ、うらやましいなー。

「もう! 泣かないで、ってば!」

 ユカちゃんはあいりちゃんのかたをたたく。

「だって……ユカちゃん……ううん。言わない。きのう聞いたことはぜったい、えいえんにだれにも言わない。ユカちゃんにも言わないからぁ……」

 あいりちゃんがユカちゃんの何についてそんなに泣いているのかはわからない。

 だけど、ダイキくんにしてもユカちゃんにしても、強い子ほどつらい思いをいっぱいしてるんじゃないかなぁ。少しの時間だけど、ダイキくんの中に入ったことで、ぼくはそうかんがえるようになったよ。

 教室につくころ、あいりちゃんは泣きやんでいた。ダイキくんとユカちゃんは、また口げんかをしている。ダイキくんは、ユカちゃんがはいている、スニーカーのひもの色がおかしいと言ったのだ。ただのピンク色なのに。

 あいりちゃんはとつぜんぼくに向かって、

「やっぱりこの二人はおにあいだね」

 と言った。

 ぼくはなんども大きくうなずく。

「なんだよ二人してぇ!」

「あいり、すごくヘンだよ」

 と大きな声を出した二人のほっぺたは、きせつはずれのすいかみたいに赤くなった。


四百字詰め原稿用紙 六〇枚


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