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過渡期と可能性の美学

過去に対する憧れのような視線が差し向けられる時代というのは、大抵過渡期であるように思う。近代国家成立への過渡期であった明治時代、あるいは焼け野原から現代的な都市生活への過渡期であった戦後の昭和期、などなど。さらに小さな規模で言えば、子供から大人への過渡期として捉えられる高校時代が「青春」として称揚されがちなのも同じことのような気がする。

しかしよく考えてみると、どの時代、どの瞬間であってもある側面においては何らかのパラダイムから別のパラダイムへの過渡期に置かれているはずで、つまり時代とか時期とかいうのはそれが「過渡期」として捉えられる、まさにその捉えられ方において愛されるのではないか。
例えば明治時代は現段階で「完了」したと目される「近代国家の成立」に向かってひた走る、そういう時代だったと捉えられるから愛される。昭和期にしても「現代的な生活様式の成立」について同じことが言える。高校生にしても、それを「青春」として祭り上げるのは決まってとっくの昔に「青春」を終えてしまった「大人」たちである。

「過渡期」の持つ魅力はいったい何なのか? それは「可能性」であると私は思う。
あるものが完成していないということは、特定の「完成形」についてのあらゆる可能性が残されているということだ。したがって解釈者には想像の中で、その対象の手付かずの部分を自由に補完することが許されている。数年後にはどうなっているか、あるいは数ヶ月後、数日後、ともすれば次の瞬間にさえその対象は変化し、「完成」へと近づいているはずである。「もっと良くなっている」という期待感を抱かせることが、過渡期に寄せられる好感につながるのである。

「可能性」は、時間的な次元だけでなく、空間的な次元にも見出すことができる。「余白」は、まさにその好例だろう。
例えば、絵画においてある部分に画材をつけずに残しておく。あるいは彫刻の一部を彫りつけずにおく。こうすることによって作品は、かえって無限の可能性を獲得することになる。もちろん「余白」の意義がこれに尽きるわけではないだろうが、少なくともその一つの側面としてこのような機能を見出すことはできそうだ。

「シンプルであること」「手を加えないこと」がいわゆる「日本的な美しさ」であると説かれることがある。こうした言説の真偽のほどは定かではないが、私としては少なくとも表面的な捉え方であるように思う。それらの本質は「余計な装飾を排する」とか「人の手の介在を減らす」といったいわば【引き算】の結果ではなくて、「あらゆる可能性を詰め込む」という【足し算】の結果なのではないだろうか。
単純である、素朴である(ように見える)ということは、そこに自由な解釈の余地があるということであり、可能性を見出すことができるということなのである。

このように考えると、華美な装飾とか、「完全」な描出というのは逆に「美しくないものを排斥する」「不完全な要素を取り除く」という【引き算】によって成り立っているという捉え方が可能になる。「豪華絢爛」というと、一般的には「さまざまな要素を詰め込む」というイメージが想起されるように思われるが、むしろそれは一切の未完成を許さず、あらゆる余白を塗りつぶした結果なのである。

もちろん、だからといって【足し算】の方が美的に優れている、などというつもりはない。そもそも、そこに可能性が見出されるためには、すでにそこにあるものの内容やそれが置かれた状態が、まだ見ぬ未来に対して何かしらの方向性を示していなければならないのだ。単純・素朴でありながらもそこに明確な指針が示されているからこそ、解釈者はそこから出発して自由に想像を広げることができるのである。
したがって単にものが少なければ良い、手を加えなければ良いというものではないはずだ。何の手がかりも与えないまま一切を想像に任せるというのは、(少なくとも自らを「作り手」という権威に位置付けるような表現のあり方においては)表現の放棄であると言われてしまっても仕方がない、と私は思う。

単に未完成で、先の見えない手探りの状態がそのまま「良い」とされるのではなくて、目指すべき方向性がある程度はっきりしていて、その方向性の中でいくつもの選択肢が与えられている状態にこそ、私たちは魅力を感じる。そしてそのような方向性は、特に私たち自身の人生においては、自分の中で何かが「完了」した時に振り返って初めて気づくものなのだ。人はそれを「過渡期」として捉え、愛するのであろう。


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