「悪はなぜ存在するのか」(宮台真司氏ご講演)

8月は、原爆の影響から、平和について考えるというイベントが日本で多くあると思います。また、その機会も教育機関などでは、特に多いと思います。

2023年8月12日、カトリック関口教会にて平和旬間の活動の一つとして、社会学者の宮台真司氏の「悪はなぜ存在しているか」の講演がありました。平和旬間は、1981年の教皇ヨハネ・パウロ2世の広島での平和メッセージを受け、日本の教会が毎年8月6日から15日までを平和旬間と定め、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかけている期間です。

この平和旬間の中で行われた、カトリック信者としての姿勢から出てくる神学的考察、社会学者として指摘を踏まえた宮台氏の講演をまとめた上で、平和についてどのような点で考える契機となったかについて、考えていきます。

タイトルの「悪はなぜ存在しているか」について、宮台様はまとめるとこのように指摘しています。それは、「キリスト教は不完全であり、それ故に強くなるため」ということでした。以下ではこの考察を二つに分け、キリスト教が不完全であるということ、そしてそれ故の強さについてまとめていきます。そして最後に、その内容を踏まえた上で、現代において平和を考えるヒントに、どのような点で繋げていけるのかを、考えていきます。

・キリスト教は不完全である
まず最初に、宮台氏は二番目に大きな宗教であるイスラム教と比較して、キリスト教の不完全さについて論じます。両者とも一神教であり、それがゆえに世界に広く伝わる宗教になったとしています。それは、一神教がアミニズム(自然崇拝)、パンテオン(神々の乱立)、二神教が古来からある中で、そこから抜け出すための手段だったからだと言います。アミニズムは自然との共存が前提となるため、それがない場所では栄えません。また、パンテオンはそれぞれの神を見出した人の間で、争いが絶えない状態が続いてしまいます。そして二神教は、結局は善と悪は何かという答えが、神によって与えられてしまっているので、成長がない宗教になってしまいます。従って、一神教がその袋小路から抜け出す唯一の宗教的方法だったと指摘しています。

こうして生まれた一神教の中に、キリスト教、イスラム教があります。一見これで両者が宗教的課題を解決し、それぞれが独自の自立した強固な宗教として存在しているように思います。一方で、宮台氏は二者の立法の解釈の違いによって、キリスト教の弱みが出てくるとしています。イスラム教は、コーランの善行リストというものがあり、その教えを疑うことなく、それを実施することを必要としているだけです。それを評価し、一つに伝えて信者を増やさなくてはいけないと言った布教の義務はなく、それらを守ることだけが善であり、善悪は何かという議論も律法上必要とされません。

それに対してキリスト教は、イエス・キリストの姿のように、律法として固まった善行の教えがあるわけではなく、むしろ厳格な戒律主義を否定しています。それゆえ、善悪の特定の概念を定義することはできないのです。あるのはヨハネの福音書で特に強調されるような、言葉を通しての体験で、それを具現化して弟子たちに表しているのが、イエスの姿です。

イエスが指摘した律法学者の欠点は、実際には旧約聖書に書いていない内容まで、道徳化して当時の社会に根付かせ、それを社会的弱者に信じさせていたことだと、宮台氏は述べています。そしてイエスが神の言葉を語ったのは、そうした律法という人間の都合で生きている学者の言葉を、そのまま信じ込んでしまっている人々の目を覚まし、本当の神の国の姿を見せるためでした。

こうした形で、キリスト教はイスラム教に対して、変動的な善悪の判断を持っているように思える点があり、そこからキリスト教の弱さがあると指摘しています。だからこそ、時代ごとに布教を試みる際、歴史上大量虐殺や、十字軍などの宣教という名を借りた植民地支配が行われました。

・不完全である故の強さ
キリスト教は、こうしたはっきりしない善悪の考え方と歴史的出来事があるがゆえに、弱いものと考えられます。しかしだからこそ、強いともいうことができると、宮台氏は述べています。多くの理由を述べていらっしゃいましたが、ここでは2つのことに絞ってお話できればと思います。それはキリスト教徒の持つカリタス、英語でいうチャリティと召命という概念、そして「見る神」という概念です。

カリタスを考える上で、良きサマリア人のたとえ話を宮台氏は取り上げていました。レビ人と祭司は、律法に従って適切な行動をとり、道で倒れていた人を助けることができませんでした。一方で、サマリア人はその人を助けて介抱します。レビ人には、血で汚れたものに触れてはいけないという戒律があり、祭司も祭儀が終わった後、血で汚れた人に触れることができない規則になっていました。一方で、サマリア人はその負傷した人が自分を迫害している異邦人であったにも関わらず、自分があわれに思って近づき、助けます。この時にサマリア人が持っていたものが、カリタスであると、宮台氏は述べています。

このカリタスは、律法として善行であるから実施する良い行い、つまり利己的な善行ではなく、完全に心が動いて自然な行為としての善行です。つまり、カリタスは自然な心の動きから来る善行です。

宮台氏は、これについて質疑応答でさらに説明を求められた際に、召命という言葉も用いています。自分が信仰を持つものだとすると、行った行為は自分では善か悪かは判断がつかないため、自分がやっている仕事が最終的には神がいいかどうか決めるものです。だからこそ、人間は「私が皆を裏切らないように、どうか見ていてください」と祈り、いつも善いことができるように、強めてくれる神を求めているとしています。従って、キリスト教はこの「強める神」という概念をいつも持ち、日々の自分が行うこと、仕事の意味、つまり召命を考えています。

以上のような点から、特にイスラム教との比較を通して、キリスト教は不完全であり、それ故に強められることで、信仰を維持していることを、宮台氏が一貫して述べていることが分かります。キリスト教が悪や善をきっぱりと時代ごとに定義して、押し付けようとして来たから、他者を血祭りに上げるようなことを、歴史上キリスト教は実施してきたと、厳しい言葉を宮台氏は述べています。よって、悪は定義できないものとして存在するので、その対立概念である善もまた明瞭には把握しきれず、それを求めるために「見る神」を信仰するしかないというのが、宮台氏のテーマに対する答えだと思います。

最後に、著者から平和というテーマに繋げるために、一つの言葉を付け加えてみようと思います。それは、ミッションという言葉です。宮台氏は、講演の質疑応答の中で、「見る神」との関係を召命、英語でcallingという言葉を用いて説明しました。私たちは、それが自分がやるべき最も良いことか分からない中でも、何かを選んでそのために時間を使います。一般的な人々の場合は、仕事だと思います。この仕事は、神から呼んでもらって(calling)就いたと信じられるなら、「見る神」を意識し、強められることができるでしょう。

そうして私たちは信仰に強められて、日々自分の生きる場所でやるべきことを実施します。それが、ミッション(使命)だと思います。ミッションという言葉は、「派遣」と訳されるマタイ16章15節のイエスが弟子を派遣するシーンで用いられる表現です。宮台氏が言うように、イエスが律法を越えたカリタスの精神を人間に求めているのなら、その精神をそれぞれの働く場所で具現化するのが、私たちのミッションです。その時に、悪や善という概念を定義して静的に提示するのではなく、人々と接する時に行う自分なりの善を、「見る神」に強めて頂きたいと絶えず祈る信仰が、平和に繋がるのかもしれません。

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