管理職をやって気づかされた、人として当たり前のこと。
異物としての自己・異物としての他者
ずっと否定していた『看護観』という言葉、概念。
ケアの受け手、その人それぞれに違った人生があり価値観があり、身体に纏っている信念がある。
それをまざまざと感じていながら、「これが私の看護観」ですとハッキリ表明しないまでも、「私の信念」みたいなものを纏って、ケアと称して他者の領域に深く入り込むことに、私はすごく抵抗がある。
だから私は意図的に看護観やケア観というものをつくらず、意識して「私の価値観を使用しないように」している。
それは、水を濁らせるような、異物を混入させる感覚に似ている。
ケアの受け手からその異物を求められると、戸惑う。
ケアと称して、相手の世界を変えたくない。
そして何よりも私が、変えられたくなかった。
許される限り孤独で居たい。
私はとんでもなく頑固者なのだ。
透明なリーダー
ホスピス住宅で働き始め、管理職に就任してからというもの、たくさんの壁にぶつかった。ケアに於いて、組織マネジメントに於いて、それらの課題は共通していた。
私という存在の、実体の薄さ。
組織マネジメントに於いて、リーダーとしての貴方はどう考えるか?
そう問われた場合、私は基本的に「なにができて」「なにができないか」を大まかに提示して、「この辺なら行けそうです」という目的地を設定していた。しかし、そこから「どう感じていますか?どうしたいですか?」とスタッフに問うても、動きにつながるような反応は得られなかった。
組織を動かすためには、スタッフそれぞれの気持ちを動かさなければいけなかったが、私はそれをしたくなかったのだった。
私はそもそも、誰かに率いられたくないし、誰かを信奉したくないし、誰かについていきたいと思ってしまう事への嫌悪感と恐ろしさを感じていた。
世界を見渡すと感じませんか?
自分で考えずに、耳障りの良い言葉や、耳に入りやすい大きな声に反応し、
群れを成してしまう人間の危うさと脆さを。
ついていきます!
命令を下してください!
自分が管理職を務めるケアチームを、そんな人間の集まりにしたくなかった。私についてきて何か言えばその通りにしてくれてしまう群れのボスにはなりたくなかったのだ。まるでカルトの教祖じゃないか。
しかしそれでも、小手先の技術なんかじゃなく、確かにその人の心を動かさなければならなかった。今までの自分で居続ける事はできなかった。
私は、スタッフの思いや職業人生を背負う事から逃げていたのだ。
透明な看護師
看護チームの責任者ともなると、ホスピス住宅の入居者対応に於いて、デイリーなケアを担う事は少なくなる。入居者への対応に関して言えば、責任者の主たる役割は、施設での治療やケアに課題が出てきたときに、それを察知して対応する事となった。
いわゆるクレーマーに見えてしまう入居者やご家族の訴えに隠された思い、それまでの経緯は、見ようと思えば明らかに見えてくるもので、矢面に立って対応していく時に「そりゃあそうなってしまうでしょうね」という、一種のあきらめを含んだ受容的態度を取ってしまう事が多かった。私が大柄なこともあり、あまり人当たりの良い見た目をしていない要素も重なり、相手があまりにも強く出てくることもなかったが、言うべきことは言いつつも、相手の信頼を得るまでには、時間をかけても中々いかなかった。
他者は変わらないと信じているし、経験的にも知っている。
何もよりも私が他者によって変えられたくないからこそ、自分の選択によって生じた現実を受け入れているつもりだ。
同じように、私も相手を変えたくなかったし、相手の選択によって生じた現実を受け入れるべきだと考えていた。その人の選択の先に、あきらかに有害な現実が待っていたとしても、だ。
しかしケアに於いて、それで良いのか?
ホスピスという現場で、「あなたがそう決めたんなら、どうぞどうぞ。でも、何があってもあなたが責任を取ってください。」というスタンスは、最期をここで迎える人達とその周りの人達の幸せにつながるのだろうか?
勝手に好きにしてという「見放し」と、本人中心でケア職が支える「その人らしい人生」は、違う。
愛の鞭
私が責任者の立場に立ったと同時に、主任として私を支えてくれたベテランNs「Aさん」という方がいた。
私は介護時代を含めればケア職として10年選手ではあるが、看護師経験は5年にも満たない。そんな私をAさんは大いに支えてくれた。大恩人である。
私は私、あなたはあなた、そんな空気感を厚く纏った私は、他人に意見される機会が恐らく普通よりきっと少なく、我が道を淡々を歩んできていた。
しかしAさんは私に、核心を突く意見を次々に投げかけてきてくれた。
それらの言葉を浴びて、私はとても快感だった。
私は他者に変えられたくはないが、自分で自分自身を変えようとするときに意図的に取り入れる外部情報は、とても貴重に扱う。
私にとってAさんの言葉は、実体験を伴う力強いメッセージだった。
もちろん私にってAさんの言葉はあくまで他者の経験と考えではあるが、根底には私を信頼し見守るAさんの愛情があるのを感じていた。
私はAさんの感情に動かされ、自分を変える決意をしたのだった。
そんなAさんも、長年管理職をしてきた病院を退職し、骨休め目的もあって一般スタッフとしてホスピス住宅で働いていたのだが、私が責任者をやる事を喜んでくれて、応援したいと思ってくれて、ギアを入れ替えてくれていたのだった。Aさんも自分のスタンスを大幅に変えてくれていた。
そして、Aさんの感情を動かしたのは、私だったのだ。
透明な私が実体を得るために
ケアは双方向的で、相対する人と人の関係の中で行われる相互作用である事を受け入れる。
看護観をわざわざ作って売り込むのではなく、自分がケアをするときに発生しているバイアスとしての看護観を意識しておく。
その上で、自分がどうしたいか、自分の気持ちや言葉を強く持っておくこと。同じように相手にもそれらがある事を、それらを持って良い事を強く意識する事。自分を信じて、相手も同じように信じる事。
「私は私、あなたはあなた。」のその先へ。私は私、あなたはあなた。そこから始まる「私たち」で何かをするために、リーダーとして率いる存在が必要。リーダーは目的地を提示するだけではなく、目的地にたどり着くために必要な士気を高める役割もある。
他人は変えられないけれど、人は変わっていく。変わっていく時は、あなたと私の双方が、自己決定によって変わる。変わる動機は、やっぱり感情だった。
役割や立場を超えた、人と人との関係へ。
知識やスキルでその人の安心・安全・安楽を実現することはできる。
けれど、看護や介護、つまりケアと言えど、結局のところは人と人との関係
。「なにをしてくれるか」ではなく「誰がしてくれるが」であることがあまりにも大きい。
結局のところ、お互いに肩書を捨てて、「人と人」になった時に、真に対話が生まれている。
これは、ケアチームに於いても言えると思う。
責任者やスタッフという肩書はあっても、年齢や性別、経験やスキルは人それぞれで、それぞれの強みを生かして、弱さを補い合いながら、役割を果たそうと努力していく。
ケアの場面でも、チームに於いても、
「あなたには幸せになってほしい。そのためには、私はこうしたほうがいいと思うけど、どうかな。」
と、必要な時に言えるのかどうか。
半年間の管理職経験で、そんな人として当たり前の事に気がついたわけで、なおかつ日々実践しなければならない立場に置かれてしまったわけで、私にとってはとても大きなことだった。
なぜなら、一歩踏み込んで言いにくい事を言うなんてことは私にはとても難しいことだった。それに、それは頭ではわかっていても実際にはあまり出来る人がいない事でもあるから。
それが出来た主任NsのAさんとの出会いは、とても大きなものになった。
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