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こんなオレとあんなマヨ

「この3ヶ月、無意味だった」
あのときの声はまだ耳に残っている。

オレが浮気をしたらしい。した覚えはなかった。
誰から聞いたのか、マヨはオレが女と歩いていたと疑った。その日偶然オレは友達とオールをしていた。
「ねぇ、あのオールしてた日、本当は何してた? こっちは知ってるんだから正直に言って」
ワンルームの部屋がいつも以上に狭く感じた。
本当に何もわからなかったオレは平然と、
「オールしてたよ」と言った。
それでも淡々と質問をぶつけてきた。
毅然とした態度を失わないオレに、マヨはついに声を荒らげた。
「全部わかってんだよ! てめぇ浮気してたんだろ! 女のマンション入ってったんだろ! おい、てめぇ!」
さらに、勢いそのまま金切り声で叫んだ。
「てめぇと付き合ってた3ヶ月、返してよ! 時間の無駄だった! 3ヶ月、返してよ!」
オレは率直に「返してよ!」と訴えるには、3ヶ月は短いぞ、だいたい年単位では? と笑いそうになった。
一緒にオールをした友達に証言してもらえれば勘違いを正すことはできただろう。しかし、怒り心頭に発しているマヨにとったら、〈一緒にオールをした友達〉は〈口裏を合わせてくれる友達〉だろう。
だからただ黙っていた。落ち着くの待っていた。
その間違った情報源を探ろうともしなかった。
マヨは無言を貫くオレに、
「てめぇ黙ってるってことはそうゆうことだろ? ……もういいよ。あー、自分のマンション解約してなくてよかったー」と落ち着きを取り戻しながら荷物をまとめ始めた。
服を詰め込んだ紙袋を持って、
「じゃ」と立ち上がり、あっという間に出ていった。
扉が閉まる音は、終わりの合図のようだった。
至って冷静にオレは玄関の鍵を閉めようと立ち上がった。
「この3ヶ月、無意味だった」
ドア越しに聞こえてきたマヨの声は怯えていた。
オレに対して恐怖を覚えているようだった。
必ず信号を守るオレが裏切るはずがないと。
深夜、コンビニでアイスを買った帰り道、白線が3本しかない横断歩道の信号ですら守るオレが裏切るはずがないと。
「いいじゃん、これくらい渡ろうよ。ここ白線3本しかないくせに意外と長いもん。車も通らないし。アイス溶けちゃうよ」と甘えても、
「絶対に信号を守る」と実直なオレが裏切るはずがないと。
「なんでそんなに信号守るの?」と聞かれて、
「子供のときに、信号無視したらおばあちゃんに、『信号ってたくさんあるでしょ? ってことは1日に何回もルールを守れるチャンスがあるってこと。せっかくだったら守ったら?』って言われてさ、なんかハッとしたんだよなー」と語ったオレが裏切るはずがないと。
そんな自分に怯えているマヨを安心させる方法をオレは知らなかった。
それにくわえて、オレもマヨに怯えていたのだ。
お金を払った立場にもかかわらず、コンビニ店員の
「ありがとうございましたー。またお越しください」の挨拶よりも丁寧に
「ありがとうございます」と言い返すマヨが、汚い言葉を吐き散らすはずがないと。
「なんでいつもお礼を言うの?」と聞くと、
「『ありがとう』と『ありがとう』ってなんかお似合いじゃない?」と自慢げだったマヨが、汚い言葉を吐き散らすはずがないと。
店員に何も言わず袋を受け取ったオレに
「ちゃんとお礼言わなきゃ。別に客だからって偉いわけじゃないから」と本気で怒っていたマヨが、汚い言葉を吐き散らすはずがないと。
コンビニを出たあとオレが、
「店員だって別に『ありがとうございました』って言われたくないだろう」と言い返すと、
「それはただの言いがかり。あと、『店員』じゃなくて『店員さん』ね。お客は別に偉くないの」とプンプンと怒って、白線が3本しかない横断歩道を赤信号で渡ろうとして、咄嗟にオレが、
「信号!」と指摘すると足を止めたマヨ。
そんなオレたちが怯え合っていた。
だからオレは玄関の鍵を閉めた。
するとマヨの足音が遠のいた。
社会人になったばかりの大人たちがたった3ヶ月で別れた瞬間。呆れるように少しだけ笑ってしまった。
そんなオレは社会人3年目。
たった今、深夜のコンビニで缶チューハイを買って店員さんに「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
横にいる付き合ったばかりの彼女が、
「随分と丁寧ね」と笑った。
コンビニを出ると彼女が手を繋いできた。会話はなく、そのまま歩き、信号が赤だったから当然立ち止まった。つられて彼女も立ち止まり、
「信号守るって偉いね。白い線、3本しかないよ」と小声で言ってきた。
オレは、
「こっちに向かってきてるカップルもきっとこの信号守るよ」と呟いた。
女より少しだけ前を歩く男。
赤信号を無視してそのまま横断歩道を渡ろうとすると、女が、
「ダメっ」と男の腕を掴んだ。
女の声は懐かしかった。
「この3ヶ月、無意味だった」
あのときの声はまだ耳に残っている。
信号が青に変わった。
1歩踏み出すと、オレと彼女は1本目の白い線を踏んだ。
向かいの男女も1歩踏み出し、1本目の白い線を踏んだ。オレと彼女からすると3本目。
オレと彼女は、この男女と2本目の白い線ですれ違った。
オレは聞こえるかもしれないと思いながら言った。
「意味のある3ヶ月だった」