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大雑把な過酷

私の首を溶かす意志がある陽射し。
陽射しというには爽やか過ぎる。
首を浅く刺す熱針。陽刺し。
砂が舞う。舞うというには日常過ぎる。
空気よりも多い砂。シャワーヘッドから砂が出る。
日曜日の昼下がりに砂のシャワーを浴びる。
毛穴に入り込む砂が血管を埋めていく。
自分の肌を見る。肌色が綺麗。近くで見ると砂色。砂で出来た皮膚。砂で出来た自分。強風で跡形もなくなる。

「私、サハラ砂漠マラソンに出るの」
出発の前日に恋人の瑛士に伝えた。
瑛士の目は点になっていた。あの黒目は砂何粒分だったのだろう。

世界一過酷なマラソン大会と言われているサハラ砂漠マラソン。衣食住の荷物は全て自分で持ち、一週間ほどで約250キロを走破する。

経験した者にしか分からない過酷さ。
この過酷さを言葉で伝えることはできない。

そんなことは嘘。

言葉で伝えることができる。
言葉で伝えられないものは繊細なことだけ。
暑さ、渇き、風、砂、ここにある全てが大雑把。

大雑把な過酷。それが全て。

一年前、瑛士が浮気をした。
リビングで土下座をする瑛士が蛙に見えた。
「間抜けな糞野郎」
私が言い放った言葉に効力など無かった。
ただ許しを待つ瑛士が憎たらしかった。ただただバスを待つ、バス停で待つ人と変わらない。
涙は出なかった。

仕返す。

浮気をされたから私も浮気をする。
真っ先に浮かぶ手前の思考。
手前の思考はすぐに消える。

浮気をされたから悲しかった。それだけのこと。
涙が出た。止まらなかった。

大雑把な悲しみ。大雑把な辛さ。
今、私は本物の辛さを味わっている。
同時に、これが本物の辛さ? と疑問を抱く。
本物の辛さとは。
所詮、これはただの試練ではないだろうか。
ならば本物の辛さを味わい、比べてやる。

それがサハラ砂漠マラソンだった。

「別に、普通の日本のフルマラソンでいいんじゃない? 浮気男のせいでサハラ砂漠って。お金も高いしさ。死ぬほどしんどいんじゃない? せっかくの有給、私とグアムでも行こうよ」
唯一、相談した親友のアケミは言った。
「ダメ」
「そもそもどうゆうことなの? サハラ砂漠マラソンを完走したら許すの? 別れるの? 浮気したの一年も前だし」
「それは分からない。ただこの辛さが本物かどうかを知るために走る。本物の辛さなら、別れることがより辛いかもしれない。だから別れない。本物の辛さではなかったら浮気なんて大したことなかったんだ! って」
「結局、別れないってことね。浮気男を好きになっちゃったんだね」
「別れたくない。だから自分のために、別れない口実が必要なの」
「ふーん。なんでそんなにその人が好きなの?」
「わからない。言葉では説明できないけど好きなの」
「ふーん」
アケミは美味しそうに生ハムを食べた。

「どんどん綺麗になっていくね」
許しをもらったと思い込んでいる瑛士は言った。一年間のトレーニングで身体はどんどん絞れていく。

渇きに襲われる。
空気の乾きが渇きを生む。
【乾き】は空気の乾き。
【渇き】は喉の渇き。
水を欲する渇き。
大量の砂を袋に入れ、水分を絞り出す。かろうじて一滴の水が出る。それを大きく開けた口で待ち受ける。口に到達する直前に陽刺しで蒸発。そして絶望。

何度も幻覚を見た。

絶望する幻覚を見る意味がわからなかった。幻覚なら、せめて贅沢をさせて。いらないほどの水を飲ませて。幻覚なんだから。

瑛士の浮気を知ったとき、知らない女を抱きしめる瑛士を何度も想像した。
せっかくなら浮気をしない瑛士を想像すればいいのに。
頭の中は自由で、都合のいいことだけを考えればいい。しかし人間というものはわざわざ負を想像する。それは我に返ったとき、現実世界の方がマシだと思わせるため。現実を受け止めるための防衛本能。現実と想像の対比。

浮気をされた辛さ、悲しみ。
サハラ砂漠マラソンの辛さ、過酷さ。

私はこれらを対比している。
しかし、どちらも現実世界。
想像の世界はない。

サハラ砂漠マラソンの大雑把な過酷さに加え、浮気をされた大雑把な辛さ、悲しみが襲ってきた。

涙が出た。止まらなかった。

涙が頬を伝う。舌で涙を受け止める。身体から出た水分で自分を潤す。僅かな潤い。

サハラ砂漠のど真ん中で瑛士に抱きしめられたい。きっと暑い。汗が出る。その汗を舐めて自分を潤す。瑛士が私を潤してくれる。
負ではない想像。
現実世界より、想像世界が素敵。ならば、ずっと想像世界に居座ればいい。
特定の異性を美化し、愛す。そもそも恋愛が想像世界のもの。どちらかが現実世界に戻れば終わる。それが恋愛。

「なんでそんなにその人が好きなの? 」

アケミに説明できなかった。
瑛士を好きな理由は繊細で言葉にできない。
浮気をされたことは大雑把な過酷。

大雑把は繊細に負ける。
繊細は大雑把に勝つ。

完走まであと少し。
ゴールは目の前だ。