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おもしろい女友達

エミはおもしろい。
居酒屋テーブルに並んだ料理の数々。
「おれ、もずく酢、注文しようかな」
「いいんじゃない。あっ、夏目くん。海藻ってハゲ予防にいいらしいよ」
彼女とは数年来の友人。
こうして数えきれないほど会っている。
「そうなんだ。じゃ、たくさん注文しよう。10コくらい」
「じゃ、もずくズだね」
「複数形にするなよ」
理解していることを強調するように指摘した。
しかし、ふざけたあとのウイニングランは不要と言わんばかりの彼女は平然と会話を進める。
「現状、頭皮はどんな感じなの?」
「おれ、まだ28だし余裕だよ」
自信満々に髪をかき上げ、生え際を見せた。
「ヤバいよ。おでこすごく広い」
嘘に付き合う。
「どれくらい広い?」
「そだねー、本当に広くて、〈りんご何個分〉の大きさって言うより、〈東京ドーム何分の1個分〉の大きさって言った方がわかりやすいくらいに広いよ」
「デカ! めっちゃ広い! おれのデコ!」
やはりエミはおもしろい。
そんな彼女に毎日会いたくなる。
それはおもしろいから。
仕事終わりに顔を見たくなる。
それはおもしろいから。
たまにでいいから、偶然でいいから、手と手が触れ合いたくなる。
それはおもしろいから?
ネットで星座占いにアクセスして「見せて」とおれのスマホを取ろうとして、触れてきたエミの手。
〈アボカドとキムチと胡麻油〉の一品料理の美味しさに感動したのか「おいしい、これ最高。いぇーい」とふざけてハイタッチを求める手。そこに触れにいったおれの手。
横並びで歩いていて、ぶつかった二人の手。
エミの手は、おれの心の恥部を手こずらせる。
星座占いのとき、彼女の手が温かかった。なるほど、手のぬくもりがおれの心の大黒柱をもろくするのか。と、思っていたがハイタッチをしたあの日は、彼女の手が冷たかった。すると、おれの心は石油ストーブがつくように温度が上昇してオス臭くなった。なるほど。体温の違いを感じて、おれは異状を呈するのか。と、思っていたが、翌日、会社で資料の受け渡しで同僚の女性社員と手が当たり、体温差を感じたものの、無感情。なるほど。答えは一つ。エミの手のみがおれの心の入場券を持っている。
と、結論づけたが、そもそも何故その入場券を彼女は持っている? そうか。おれが持たせたのか。なぜ持たせた?
ようやく答えを導き出せた。
おれはエミに恋をしている。
彼女との長い関係性と彼女のおもしろさが霧となり、おれの感情の向こう側の視界を悪くしていた。
それが判明してから数日ぶりにエミに会うと、感情を誤魔化すことはできなかった。
いつもの居酒屋に、いつものエミと、いつもと違うおれ。
目が合うと、ぶつかっているタイムを計ってしまう。
目が合った回数を測ってしまう。
「夏目くん、今日、なんか違うね」
「いや、そうかな」
「ずっとそわそわしてるよ。会社のお金でも横領した?」
「えへへへへ」
安っぽい悪役のような笑い方をしてしまった。
今日も笑わされるおれは、気持ち悪い男になっていた。
その日からエミと会う毎に、おれの気持ち悪さは増した。
それでも彼女は変わらず、何度もいつもの居酒屋に通ってくれた。
「この前ね、おもしろいことに気が付いてね。私、一人で大笑いしたことがあって」
いつもは電車を待っているような顔でふざけるエミが、前もって「おもしろい」と告げることは珍しい。
「なに、なに? なんだろね? なに?」
おれの相槌はすっかり気持ち悪い。
「私たちってさ、出会って三年くらい? 恋愛の話をしたことがないの。その理由を考えたら大笑いしたの。それは恋愛話って一発目の質問に『恋人はいるの?』って聞くでしょ? 聞かれた側は『いる』または『いない』って答えるでしょ。『いない』って返答された場合、次の質問は絶対に『今、好きな人いるの?』でしょ? そうなると、『いる』または『いない』って答えるでしょ? 『いる』って答えられたら、『誰? どんな人?』って聞いて、好きな人を説明された場合、それが自分じゃないかもしれないっていう恐怖心が私たちの中にあるんだと思うの。また、好きな人が『いない』だった場合も同様に、自分は好きな人に該当していない、自分は好かれてないんだって傷付くの。つまり、私たちは、お互いに、好きな人に選ばれない恐怖から逃げていたの。それに気が付いたら、もう、私、笑いが止まらなかったの。と、まぁ、とても哲学的に言いましたが、これが私なりの夏目くんへの告白です。こう見えて滅茶苦茶に勇気を出したんだけど、どんな感じかな?」
おもしろいエミの告白はやはりおもしろかった。
数年の友人関係に終止符を打ったその日の帰り道、居酒屋から駅までの距離を、手を繋いで歩いた。
「あれ見て」
すでに営業時間を過ぎたガラス張りの服屋を指さしたエミ。
暗い店内にある全身鏡。そこに映る二人。
天気雨のような。
泡立たない石鹸のような。
男子中学生がヒゲをたくわえているような。
そんな違和感の正体は、全身鏡の中で手を繋ぐおれたちだった。
右手でエミの左手を繋いでいるはずが、鏡の世界では左手で彼女の右手を繋いでいた。
鏡は左右反転のみで上下はそのままである。その違和感さえも凌駕する二人の姿。
おれは笑いを抑えることができなかった。
彼女も同様に。
店内に向かって大笑いする二人を通行人はどう見たのだろう。
友人から恋人への〈昇格〉は、おれたちの場合は〈笑格〉と書くのか? おれはやはり、つまらない。
「私たちがカップルってことが信じらんない」
「そうだな」
「この事実を飲み込むのは時間がかかるかも。お肉のミノを飲み込むくらい」
「確かに、時間かかるけど」
おもしろい友達のエミは、おもしろい恋人になった。

ようやく手を繋ぐことに慣れた頃、エミが家に泊まりに来ることになった。
夜、最寄り駅まで迎えに行き、手を繋いで帰る。
いつも眩しく感じる歩道にはみ出るスーパーマーケットの明かりが、彼女の顔を照らした。
〈エミ〉と名付けられたこの人は、名前に沿って生きている気がした。
靴を脱ぎ、部屋を見渡す彼女。
「案外、汚いね」
「そうゆうときってだいたい、『案外、綺麗ね』って言うだろ」
「案外、掛け時計、実家感が強めだね」
「おれの掛け時計がどんなのかって、予想なんかしてなかっただろ」
いつもの調子で、飲み食いするおれたちに違和感はなかった。
数年来の友人から、簡単に、恋人に昇格できたのかもしれない。
買い込んでいた惣菜は食べきった。
缶チューハイは残り一本ずつ。
シャワーを浴びるおれ。
水気を拭き取る。
リビングに戻る。
「どうぞー。シャンプーとかも勝手に使って」
「へーい」
エミもシャワーを浴びる。
ドライヤーの音が聞こえる。
化粧を落とした姿でリビングに戻ってきた。
「案外、まんまだな」
「そうゆうときってだいたい、『案外、綺麗だね』って言うの」
缶チューハイを飲む二人。
盛り上がる会話。
笑う二人。
止まる会話。
缶チューハイを飲む二人。
テーブルに置くアルミ缶。響く音。
それに負けじと響く秒針の音。
あくびをするエミ。
浅いあくびをして「あくび、うつった」と言うおれ。
同じタイミングで缶チューハイを飲み干す二人。
凹ませるアルミ缶。
立ち上がり、電気を消すおれ。
安くて薄いカーテンが外の明かりをわずかに招き入れる。
エミの隣に座り直すおれ。
テーブルに膝をぶつけて倒れる凹んだアルミ缶。
それを立て直すおれ。
そしてまた倒れる凹んだアルミ缶。
凹みを下にして安定させた状態で寝かせるおれ。
立ったままのもう一方の凹んだアルミ缶を寝かせたエミ。
隣を見るおれ。
こちらに顔を向けたエミ。
暗さが邪魔をして目が合わない二人。
顔を近付けるおれ。
動かないエミ。
動く秒針。
触れ合う唇。
あまりにも柔らかくないエミの唇。
再確認。やはり柔らかくないエミの唇。
横に突っ張っているような固いエミの唇。
小刻みに揺れるエミの唇。
唇の隙間から鋭く短い息を何度も吐き続けるエミの呼吸。
唇を離し、顔を離すエミ。
呆気にとられるおれ。
暗がりに慣れて、目が合う二人。
「私、どうしよ。おもしろくて仕方がない」
張りのある声を出して大笑いするエミ。
さらにおもしろさが増幅したのか、腹を抱えながら床に倒れ込むエミ。
そんな彼女を眺めて、凹んだアルミ缶を二本、立て直した。
「おれ、めっちゃ緊張してたのに」
「だって私たち、ちょっと前まで、友達だったもん」
暗がりに白い歯を浮かせて、満面の笑みでこちらを見るエミ。
それを見るおれ。
エミはかわいい。