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諸橋大漢和に挟まっていた新聞の切り抜き

「モロハシ」について学んでみよう、と決意して、初めての記事です。
決意するまでの経緯はこちら↓

我が家にある『大漢和辞典』の縮刷版は13巻構成、13巻目は索引です。
どの漢字がどの巻の何ページにあるのか、索引をみるとわかります。

この辞典の成り立ちや説明が書いてあるなら、まず索引だろうと
索引巻を開いてみたところ、新聞記事の切り抜きが挟まっていました。

我が家の大漢和は、どこから入手したものかわかりませんが、前の持ち主が新聞から切り抜いて挟んでおいたのでしょう。
大漢和辞典編さん製作関係物故者の慰霊祭が行われたという記事でした。
記事本文には以下の記載がありました。

この全十三巻、一万五千ページに及ぶ大著が編さん・製作され、完成するまでには、戦争をはさんでの三十五年の年月と、その間、編纂製作に関係した数百人の協力があった。その関係した人の中で既に故人となった人が、四十四人いる。

長い年月と多数の人が関わって製作された一大事業だったんですね。

索引巻には、大修館書店の創業者、鈴木一平の出版後記が掲載されていますが、え?と思うようなことが書かれていました。
手許の索引巻に書かれた原文は、旧字が多く、転写がかなり大変なので、大修館書店のサイトから引用させていただきます。

諸般の出版態勢を整えると共に、私はこの事業の完全なる遂行は私以外にはなしえないが、若し事業半ばに於て死亡し、この出版に支障を来すならば、諸橋先生ならびに今日まで御声援を頂いてきた方々に相済まぬという責任を痛感し、本来各方面に進むべく勉学中であった長男敏夫を、当時東京慈恵会医科大学から退学させて経営に参加させ、次男啓介は、旧制第二高等学校を卒業し、東京大学に入学準備中のものを断念させて写真植字を習得、技術を身につけさせ、更に三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、私亡き後でも、私の分身が必らずこの事業をなし遂げられるという万全の態勢をとり、父子二代の運命を賭けてやり抜く決意を固め、それを実行した。戦災を免れたのは校正刷りの原稿のみ、あとは総べて新規に設営せねばならぬものばかり、私はこの事業の完成のみを志向し、あらゆる労苦に耐え、働き抜き、他の出版物から生み出される剰余の一切を投入して、再出版の一日も早からんことを念じた。

漢字文化資料館『『大漢和辞典』 出版後記』大修館書店

鈴木社長は、大辞典が完成する前に自分に何かあったらと、三人の息子を編纂プロジェクトに参画させたとあります。
長男を大学退学させ、次男は大学進学を断念させ、三男は大学卒業を待ったとのこと。しかも長男は医大(東京慈恵会医科大学)、次男が入学予定だったのは東京大学、三男が卒業したのは東京商科大学つまり今の一橋大学です。錚々たる学歴ですね。
当時は父権が強かったのだと思いますし、それだけの重要性を持った大事業だったのだと思いますが、それでも鈴木社長の思いはすさまじいです。

なお、第一巻で、諸橋徹次が序文を書いていて、鈴木社長と3人の息子のことにも触れています。

かくて私も愈々再挙の決意を固めて居ったが、その矢先、甲州の疎開地から帰京した大修館の鈴木社長が、上京早々、これ又再挙の事を申し出た。そして言うには、自分は社運を賭してもこの事業を完遂する。それがためには、大学在学中の長男と仙台二高在学中の次男とは共に退学、これに当らしめる。三男も今は若いが、他日大学卒業の後にはこの事業に当らしめると。つまり一家の血肉を捧げて事業の完遂に当るというのである。私は深くその誠意と決意に心を動かされた。

漢字文化資料館『諸橋徹次博士の序文』大修館書店

ちなみに、うちの息子は、同じことを父親から言われたら
「絶対従わない」
と言い切りました。
そりゃそうですよね。父親もそんなことを言わないですし、それ以前に、そんな大事業に携わっていないですし。

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