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無意味な時間の中にある意味を感じて

「選択する」という事は、無数の「選択されなかった未来」の屍の上に立つ事だ。

いつも対人支援を考える時には「何が最良の選択肢か」という事を意識する。
しかし、その時に「何をもって最良とするのか」という迷いが生じる。

最重要なのは「命がある事」だと思う。
終末期の方はこれに当てはまらない場合もあるのだろうが、
命があるからこそ選択できる未来が繋がると考える。
そこで切れてしまったら繋がるべき未来に繋がらない。
可能な限り、それは避けたい。

が、しかし、

時々「もう死にたい」と言われてしまう事もある。
その時に、よく反射的に「死んではいけない」と答えてしまう。

ごくごく当たり前の反応だろう。

でも、私は心の底から「死んではいけない」と思っているのだろうか?
フッと、そんな疑問が湧きあがる。

当たり前だが「死んでしまえばいい」なんて思わない。
でも、反射的に「死んではいけない」という言葉を発する自分は何様のつもりなんだろうか。
凄く薄っぺらい言葉が上滑っている感覚に陥る。
何だか非常に気持ちが悪い。

他人から見ると私の「言葉」と「気持ち」が一致している必要なんてこれっぽっちもないのかもしれない。
逆にそれが常に一致している人間を探し出す方が困難だろう。

しかし、幻想なのかもしれないが、
実際に相対する人々は、私の心なんて当然の様に読まれているような感覚に陥る瞬間がある。
全てを見透かされている、というか。

それを証明するかのように、表面上の関わりで支援を続けていても、何処かで行き詰ってしまい、これ以上先に進めなくなる瞬間が必ずある。
その時に、横に座って一緒に時間を過ごす事ができるか、という事はとても大切な気がしている。

学生時代から「よりそう」という言葉を大切にしてきた。
今でもそれはとても大切な要素だと感じている。
どんなに社会資源を上手く使えるようになっても、
どんなに連携をスムーズに取れるようになっても、
目の前の相手と同じ目線に立って話ができなければ全く意味がないように思う。

相手の目の前にニンジンをぶら下げて操作する事が対人援助では決してない。
相手と一緒に道を歩いていく事こそが一番の援助方法だと私は思っている。

だから「何が最良の選択肢なのか?」と聞かれたら
「その人の選んだ選択がいつも最良の選択肢である」と答える。

だから「死」を強く意識するワードに対しても「よりそう」事から始めなくてはいけないのではないだろうか。

無意味な時間にこそ意味があるような気がしている、今日この頃。

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