皆城総士は一騎の神様?

ドラマCD『NOW HERE』

この話において真壁一騎と皆城総士の「ある会話」がファンの間でしばしば話題となっている。

総士「お前にとって僕は神様か?」
一騎「似たようなもんかな」

一騎と総士、二人の関係性をあらわす一節としてファンの間で語り草となるこの会話だ。
あまりに衝撃的な一節であり、一騎の演技のニュアンスからも彼らの関係性を集約したような一節にも解釈できる。

だが私はこれを文面そのまま肯定と解釈するのには懐疑的な立場だ。
むしろこの一節を読み解くことで、真の二人の関係性を知るための足がかりになると考えている。

まず、この一節に至るまでの文脈をおさらいしよう。

マークザインで一人で戦いたいという一騎に、
「怖くないのか?」と問う総士。
一騎は「戦ってるとき、システムの中にはお前がいる。怖いと思う必要もない」
と答え、総士が例の神様発言へ。

総士からすれば「僕がいるだけで神様のように戦いを勝利に導くと考えてるのか?」という意味合いで言った一言と思われる。深く考えていない総士なりのユーモアだ。

ここでフォーカスしたいのは、一騎の無意識下の矛盾だ。
一騎は自分一人で戦いたいと言っているのに、総士という存在がそばにいる前提で「一人」としている。
真矢や他のパイロットを危険な目にあわせたくないのに、総士を例外としているのはジークフリード・システムの同乗者だからという理由だけでは当然ない。
これは、一騎が総士を自らを構成するのに不可欠な存在として定義していることからくる認識だ。
不可欠な存在とは具体的に、自分に必要で欠けているものを持った他者、いわば「片割れ」と定義する。
一騎一人では不安定な存在なのが、自分に不足したものを持つ「他者」であり「片割れ」の総士と共にあることで、真壁一騎という「一人」の存在が完成し「ここにいる」と認識している。

私は一騎にとっての総士を「片割れ」と呼んだが、このときの一騎の主観では言語化できない極めて難しい定義となっていた。
そこで総士の冗談めかした調子の「神様」を、自分の中で近しい感覚ととらえ「似たようなもの」と答えたのだろう。
総士=神様という認識は必ずしも間違いではないし、一騎の中でそういう認識も内在しているのは確かだろう。しかし完全な正解として当てはめるにはいささか不相応な定義に思える。

一騎にとっての総士は全能の神様ではなく、分かりたい他者であり、総士を知り続けることが一騎にとっての自分が自分であることの証拠、もっと言えば自分が完成するための大前提なのだ。
この一騎の前提はこの先のシリーズでも通底した認識であり、総士がフェストゥムに近しい存在になっても彼を「知り」同じものを「見る」ために祝福を受け入れたことからも明白だ。

「一」と「総」
「存在」と「無」
「傷つけた者」と「傷つけられた者」
「人」と「フェストゥム」

異なるものでありながら、欠けた互いが歩み寄ることで完成されたものになる。
一騎と総士、二人の関係性は、物語において「異なるものたち」の完成と和解を目指す世界の在り方そのものと言うに他ならない。

以上が私の解釈となる。

なお神様というものは『無印』最終話や『劇場版』にて重要な意味合いを持って物語に組み込まれているので、各話を語るときに改めて言及したい。

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