人生はわりと偶然の連続②【古田更一】
私の通っていた特殊進学校は中学時代から大学院レベルの社会科学を英才教育させられたが、未だに社会人になっても中学のカリスマ教師に依存している方々もちらほらいると言う。
東大以外の人間は人間ではないという話もマジでよく聞かされていて、
結局、正しい答えが本当に本人にとって正しいのか?は全く別なのだ。
博士課程までいけない自分にクヨクヨしながらも、一方でどうやって博士課程へ行けない自分で博士課程クラスになるかならないか考えるべきだ。
僕は大学1年目から美術批評でトップクラスの業績を出した。
ソシャゲ逆転オセロニアの批評だ。
大学院まで行く方なら分かると思うが、先行研究はたくさんあるしいかに教授が埋め尽くしたポストのスキマを作るかが重要になる。
僕は大学院まで行く気がなかったのは、関心ジャンルがFateやひぐらし、逆転オセロニアというもう大学では受けないジャンルだし美術批評自体がそもそもあまり需要が少なすぎるので、
これなら逆転オセロニアを作ったDeNAのプロデューサー自体に読んだり話せたらいいなと思ったのだ。
で、実際に会ったし凄かった。
僕としては人生で一番クラスに満足できた経験だったが、社会に基準を合わせる人はこういう幸せを甘受できないし、想像できない。
ちっぽけかもしれないが、じゃあ本当の先行研究とは何だろうか?
たまたま逆転オセロニアはプロデューサーに会えたが、会わないだろうが浅田彰批評は書いているし、宮台真司を批判しまくっていたのに宮台真司から謎絡みされる自体もあったし宮台真司好きからもカオスフォレストは不思議と人気というわけのわからぬ話もある。
成功とは何か?みたいなのは自己啓発じみた虚言は社会に出る前で卒業するべきだ。
社会にまだ出ないからこそ、学校ではいかに社会化したふりを努力する方が大切だ。社会よりもぬるい嘘の世界だからだ。
だけど、社会に出たら今度はあまりに社会化されるので社会化は大事だからこそ、いかに社会化されないかが重要だ。
成功とは何だろうか?のような哲学じみた問は暇なときにやるべきで病気になるなら東浩紀ほどかくごをもってやるべきだ。
覚悟がないうちは、大学の名前だとかそういったゲームは一旦忘れないと、社会の複雑性に食われてしまう。
社会は選択肢が学校よりたくさんあるので、そのぶんダラダラしないといけないしハラハラしないといけない。
社会の偶然性は偶然だから結局のところ難しいのだという当たり前の話になるが、当たり前を当たり前に自覚するのは割と大事な気がする。
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