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【映画】理系にこそ見てほしい『オッペンハイマ―』【感想】

 中学二年の時、二次関数を習った。方程式とグラフが組み合わさり、パズルのような鮮やかな解法を目にして、なんて面白いんだろうと思った。

だが一方で、恐ろしくも感じた。僕は13歳になるまで二次関数という世界を知らなかったけれど、周りの大人たちはすでに知っていることだったのだ。13年も(!)、僕の知らないところに存在する、こんなにも美しい世界があったのだ。

世界にはまだまだ僕が知らない真理が沢山あるのではないか。世界を構成する美しい真理が、僕の知らないところでやり取りされるのは、非常に恐ろしく感じた。

「世界の真理を知らなくてはいけない」。その後、高校で理系を選択し、理系の大学に入学した。そして大学院まで6年間を、科学と共に過ごした。経歴を振り返ると、このエピソードが根底にあったのかもしれない。


余談が過ぎたが、昨日映画『オッペンハイマー』を観てきた。とんでもなく話題作だし、日本特有の議論も巻き起こす作品だと思う。ただそれは抜きにして、この作品は理系にこそ見てほしい。きっと何かが心に引っかかるから。

この映画の序盤は、現代量子物理学のオールスターが登場する。シンプルに熱いワクワク展開だ。

例えば、量子力学の確率論的世界観を切り開いたボーア。不確定性原理で決定論的宇宙を打破したハイゼンベルグ。そして「神はサイコロを振らない」と量子論に反対したアインシュタイン。

僕も大学で少しは量子力学を学んだので、聞き馴染みのある名前が並ぶ。まさに現代物理学界のアベンジャーズ展開だろう。

一方で、正直なところオッペンハイマー博士の理論物理学者としての側面は知らなかった。どちらかと言えば、マンハッタン計画を主導した、優秀なプロジェクトマネージャーというイメージが先行していたからだ。当たり前だが、博士自身優秀な科学者だったのだ。


物語の中盤に入ると、まさに「転がり始めた車輪」という感じで映画は進んでいく。

理論的に可能と判明した原子爆弾は、マンハッタン計画という国家プロジェクトとして進められることになった。原爆なんてものを創っていいいのか。勿論、オッペンハイマーをはじめ参画する科学者たちに苦悩がないわけではないだろうが、それはそれとして事は進み始めてしまった。アメリカは原爆を作らなければいけない、ナチスより先に。その危険性は感じながらも、進み始めてしまった世界では止まることなどできないのだ。


もう一つ印象的だったのは、「原爆は科学者が作った」ということだ。当たり前のことだと思うかもしれない。しかし僕は心のどこかで、原爆のような大量破壊兵器を作ったのは、軍服を着た軍人なのだとイメージしていたのだ。

だが映画で描かれていたのは違った。原爆を作ったのは厳つい軍人ではなく、ラフなスーツを着た科学者だった。そして科学者が原爆を作る光景には、僕も見覚えがあった。僕が大学院生として研究を行っていた時の風景にそっくりだったのだ。

理論と論文を調査し、準備を整え、実験を行う。一回の実験で多額の費用が掛かるのも珍しくない。そして実験が成功し、自分の仮説が正しいと証明できた時には、否応なく興奮してしまう。


映画では「オッペンハイマー博士が道徳的責任を感じていたのか」という問答がなされる。観る人の評価が分かれそうな部分ではあるが、ここで思い出すのは『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』というハンナ=アーレントの著作である。そう、悪とは陳腐なのだ。

アーレントはこの著作で、歴史上類を観ない悪逆を働いた男は、何の特徴もない凡庸な役人だったと結論付けた。

僕はこの映画を観たからと言って、オッペンハイマー博士を肯定することも非難することもない。まして、かつて自分が歩み、片足を突っ込んだ科学者という存在を不安に思うことはない。

ただマンハッタン計画に従事した科学者たちが、「他人とは思えない」、そう思った。

参考

『エルサレムのアイヒマン』 著:ハンナ・アーレント

 善人がなす悪行、悪人がなす善行。どんなことも結局は凡庸な人間の行いによって成り立っているのではないか。僕たちは、時にある人を特別だと過大(過小に?)に評価してしまうけれど。

『進撃の巨人』 著: 諌山創

本文中に入れようと思ったけど、爆裂ネタバレなので辞めた。思えばエレンも、結局は特別なんかじゃない凡庸な人間だった。進み続けるしかなかっただけなのだ。

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