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平成最後の1日に思うこと

今日で平成が終わる。しかし本当に平成は今日で終わるのだろうか。
私はそうは思わない。本当は平成はこれから始まるのではないだろうか。

平成という年号が使われ始めてから31年がたつ。
平成7年に私は生まれた。バブル崩壊、ベルリンの壁崩壊、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災と激動の時代を横目にすくすくと成長し、頼んでもいないゆとり教育を受けのほほんと義務教育を終えた。嵐やAKB48と言った今や国民的スターとなった彼ら彼女らに熱狂し、新潟中越沖地震、東日本大震災、熊本地震と数多くの災害に心を痛めた。インターネットの発展とともに大人になり、デスクトップパソコンやガラパゴス携帯がノートパソコンやiPhoneに変わって行く姿を目にしては技術の進歩に驚いた。目まぐるしく様々なことが起きたが、国内では戦争はなく平和を享受した。

平成にはいろんなものが生まれ、流行した。パンナコッタ、タピオカ、プリクラ色々あるが私はここでハラスメントという言葉に注目したいと思う。

ハラスメントとは他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることである。平成にはパワハラ、セクハラ、モラハラ他にも様々なハラスメントが誕生した。いや、誕生したというよりもともとあった不快さや生きづらさに名前が付けられ問題視されるようになったと言えるだろう。昭和にもこれらの問題はあっただろうが、なぜ平成になってこれほどまでにこれらの問題がフォーカスされるようになたのだろうか。

原因の一つにバブルが崩壊しそれまでの幸せの理想が通用しなくなったことがあるだろう。いい大学に行き、いい会社に入り、お金をたくさん稼いで家族を持てば幸せに生きて幸せに死んで行ける。女性にしても高学歴で高収入な男性の元へ嫁ぎ、夫を立てる良き妻として生きていれば幸せに死んでいけたのだろう。しかし不況が訪れ状況が一変した。就職した会社が定年まで存続するかもわからず、また永年まで雇ってもらえるかもわからない状況になった。十分な収入が確保できず、女性も働きに出るようになった。働く環境が変化し幸せの理想が崩壊するにつれて人々は自分に見合った幸せを代わりに追求するようになったのではないだろうか。写真や絵、ファッションを通し自己のの創造性を追求していくパターンや、世界中を旅して回ったり、企業に囚われず自由な働き方を模索したり、女性が企業のトップとして活躍する道を選んだりするパターンが増え、今も増え続けている。

幸せの理想が変化しなかったらセクハラやパワハラは問題視されなかったのかもしれない。ちょっと我慢すれば順当に出世して十分な報酬を得てそのうち嫌な上司はいなくなり自分がそのポストにおさまれた。不快になるようなことがあっても我慢すれば幸せになれるのだから、いちいち異議を唱えないでおとなしくしていればいい。

しかし幸せの価値観が変わるとそうも言っていられなくなる。様々なハラスメントは個人の幸せを阻害する障壁なのだ。たとえば女性が結婚後も会社に長く務め働きたいと願うのならば、これまで当たり前で合った「結婚しないのか」、「子供は産まないのか」といった圧力であったり、男性社員による性的な言葉の暴力や実際に体を触られるなんてとんでもないことは働く上での障壁になる。多様な生き方が認められるようになる上で男性だって出世競争に追われることなく終業後は趣味や副業など仕事以外のことに時間を費やしたいと思うだろう。仕事だけが人生の選択ではなくなった場合、上司からの罵倒や不当な嫌がらせ強制的な飲み会の誘いは自分なりの幸せを享受するためには邪魔でしかないのだ。

冒頭の提起に立ち返るが、私はこれから平成という時代が始まると思う。というのもハラスメントという言葉、ハラスメントに抗おうとする価値観は平成という時代に生まれた。逆に言えばそういった価値観は平成生まれの人間とともに成長してきたとも言える。平成が始まって30年。社会ではそろそろ平成生まれが時代を動かす実権を持ちはじめる頃だろう。政治家になるにはまだ早いが、企業や教育機関など私たちの身近なところではもう平成生まれたちが大きな意思決定権を持ち社会を動かしているだろう。つまり、平成が終わり令和が始まれば平成に根付いた価値観がさらに拡大しより自由と個人の幸福を追い求めやすくなるとも言えるだろう。

ハラスメントという言葉が誕生しそれまで手の打ちようがなかった生き辛さ対して、少しずつ議論の場や対抗手段が生まれた。生き辛さに対して異議を唱えることが普通になったことは素晴らしい進歩だと言える。昭和後期に生まれた諸先輩方がそのような場を作ってくださったことで、平成生まれたちは自分を自由に表現し自分らしいい生き方や幸福を追い求める可能性を手にすることができた。

しかしその可能性が広がったことで、私たちはより個々人の倫理観や道徳観を鍛え磨いていかなければならない。互いに幸福を追求するためには今まで以上に互いの個性や価値観を尊重し、理解するため、または理解できなくても糾弾しないためにこれまで以上に努力が必要になるのだ。ハラスメントが許されていた時代には理解できないものは糾弾しつまはじきにしてしまえば簡単で深く考える必要もなかった。これから先、一人一人が自分の幸福を追求するためには、一人一人が自分についてよく考え、他者の価値観や文化について主体的に思考し行動していく必要がある。

昭和に重用されていた価値観が終焉を迎え、平成に生まれた価値観が実権を握り、そしてまた令和に生まれた価値観に平成の考えは飲まれていくだろう。また元号が変わる頃には平成の考えは古いものに変わり廃れていくかもしれない。切に願うのはどんな時代が来ようとも個人が互いに理解しあい、それぞれが幸せを謳歌できる価値観が定着してほしいということだ。そのために今自分が社会に対して提供できる価値をよく考え、より良い社会のためにできることを実行していきたい。