かぶり物

気が付き始めたのは1週間ほど前だった。
スーパーからの帰り道、缶ビールやら休日を満喫しきれなかった後悔やら惣菜やら、明日から始まる仕事への憂鬱やらを抱えながら家まで続くゆるい坂道をもさもさと登っていると、向こう側から大仏のかぶり物をかぶった人が歩いてきた。
30代男性、趣味はひとりキャンプ、みたいな人の服装で歩き方にも特徴はない。ただ、頭には大仏のかぶり物をかぶっている。
その大仏頭の後ろから西日が差していてありがたい感じになっていて少し滑稽だった。
でも路上に一人きりで大仏のかぶり物をかぶっている人、というのは自分が人を正常か異常か判断する資格があるかどうか問わなくても
「異常です!!」と言い切って差し支えないように思う。実際怖いし。
しかしながら、そういうおかしなことをして人目を引こうとする輩はあの無表情なかぶり物の下でこちらの反応を窺ってほくそ笑んでいるに違いない。
怯えた表情を見せたり、足を止めたりしたら負けだと思い、夕飯は何にしようかしらという表情を浮かべつつ、歩を緩めることなく進んだ。
1mほどの距離感で大仏男とすれ違うとき、心拍数が上がっていることに気がついたが、
「これはほら、坂道のせい。坂道のせいだから。はぁ~運動不足だなぁ~」
などと自分に言い訳をして聞かせた。
そんな心配をよそに、大仏男は急に右手人差し指を天に向けて「天上天下唯我独尊!!!!!」と叫びだすことも、急に飛び上がったと思ったらその場に座禅を組むということもなく普通にすれ違っていった。
何もしないのかよ。思わず小さくつぶやいていた。
うっすらと汗をかいていた。自分で思っていた以上に緊張していたようだ。
その反動なのかその後じわじわと奇妙なほどの安心感が広がってきた。
大仏だったからかな、なんて呑気なことを考えながら家までたどり着いた。
サザエさんを鑑賞しながら、買ってきたビールと惣菜で一杯やった。
今週のサザエさんは、波平がタラちゃんのためにホットケーキを作ろうとするも失敗し、大量に余ったホットケーキ液を風呂に入れて入浴剤代わりにするという何ともサイコな回で大満足だった。じゃんけんは引き分けだった。

朝が来て会社に行くため駅に向かう。ホームで電車を待つ。
憂鬱な黄色が到着すると、人が飲み込まれていく。乗りたくはないけど乗り遅れたくもない。私も遅れずそれに飲み込まれに行く。
ドア近くのスペースを確保し、手すりにつかまる。
電車に乗っているときはいつもラジオを聞く。
選局が面倒なので適当なラジオを適当に聞き流している。
電車内では基本的に身動きがとれないので、どれだけつまらない番組でも一度聞き始めたら電車を降りるまではそのまま聞き続ける。
「腹の虫おさめ隊!のコーナーでしたー!それではここでお便りを紹介します!ラジオネーム『おさかな天国ちゃん』さんからのお便りです。
いつもお便りありがとうございます!…」
おさかな天国ちゃんさんはこのラジオのヘビーリスナーなのか。
こんな退屈なラジオが流れ続ける天国があったら地獄だな…なんて思っていたとき、目の端に魚が泳いでいるのが見えた。
正確には、魚のかぶり物をかぶっているサラリーマン風の人が同じ車両の奥の方に立っているのが見えた。
鰤か鮪か鰹かよくわからないが、丸々太った魚のかぶり物だ。
しかも後頭部側はしっぽなのだが、尻尾側に立っている人のこれまた後頭部に当たってぐにゃっと曲がっている。
すごい邪魔になっちゃってるじゃん…。
周りの人は全くおさかな天国ちゃん(命名した)に注目していないのが不思議だ。
ここらへんでは有名な人なのだろうか?いや、この時間のこの電車に5年は乗っているけど初めて見たからそんなはずはない。
おさかな天国ちゃんは錦糸町駅で降りていった。
窓越しに観察したけれど、やはりスーツを着ているし、革靴も履いていて頭以外はどう見てもサラリーマンだ。
おさかな天国ちゃん、会社勤めなの…?
もしかして水産加工品の会社のPRか何かかとも思ったけれど、人に迷惑かけてたし逆効果だよな。
「…それではまた来週お会いしましょう!」
腹が立つほど軽快な音楽とともにラジオは終わった。
今月は決算月なので忙しい。あんな奇人にペースを乱されては困る。
いやぁ、でも2日連続でかぶり物かぶってる人を見かけるかね。流行ってるのか?
仕事への憂鬱と、電車の中を泳ぐおさかな天国ちゃんと夕日に照らされた大仏頭が順番に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している間に職場についた。
仕事に取り掛かると魚も大仏も頭からすっかりいなくなっていた。

次の日の朝、電車におさかな天国ちゃんはいなかった。成仏しちゃったのかもしれない。

会社帰りにスーパーに寄った。今日は少し早く帰れたので、ひさしぶりに料理がしたい。あぁ、生姜焼きが食べたい。
1/2カットのキャベツを買い物かごに入れて進むと、豆腐売り場にツタンカーメンがいた。もちろんかぶり物の。
左手に買い物かご、右手を顎(?あの謎の出っ張りの部分)にやって、いかにも悩んでいますというポーズをしている。
ピーク時より少ないにしても、スーパーにはそれなりに人がいる。
それなのに誰もツタンカーメンに注目していない。
どの豆腐を買おうか悩んでいるツタンカーメンが豆腐売り場にいて、人は注目しないでいられるのだろうか?
「そのおぼろ豆腐、美味しいですよ。」思わず声をかけてしまった。自分でも驚いた。
刺激の少ない毎日を送っていると、人は変なところで刺激を求めてしまうのかもしれない。
体感で3秒ほどの沈黙の後、ツタンカーメンは私のおすすめした豆腐を買い物かごに入れて去っていった。
ツタンカーメンの後頭部を見送りながら、意思疎通できるんだ…という驚きとか、豆腐を食べるときは流石にかぶり物を外すよな、とかツタンカーメンは豆腐には醤油じゃないのかな、いや、別に中身はエジプト人じゃないか、ていうかツタンカーメンって男だよな、とかしょうもないことが頭の中を駆け巡った。はっと我に返り、私もその豆腐を買い物かごに入れた。
家に着いて生姜焼き用の豚肉を買い忘れたことに気がついた。
ツタンカーメンの呪いだ。

大仏と出会って以来、かぶり物をしている人をよく見かけるようになった。
大仏、魚、ツタンカーメン以外にも馬、犬、鳩を見かけた。
馬は駅のホームに突っ立っていたし、犬はリード無しで散歩していた。放し飼いだ。
鳩は公園にいた。公園に鳩がいるのは普通だけど、もう公園に鳩のかぶり物をした男がベンチに座っていても普通に思えた。
そしていつも共通していることが、彼らが私以外の誰にも注目されていないことだった。
鳩らへんでもう見慣れてきてはいたが、これは非日常だ。常軌を逸している。
しかし、周りを見回しても驚いている人が誰一人としていない。
家と会社とたまにスーパーを水平移動するような私の生活でもこんなに見かけるのだから、他の人はもっと見かけているに違いない。
それなのに私の知る限り、テレビや新聞、SNSなどでも取り上げられてはいないようだし会社でも特に話題にも上がらない。
あまりにも誰もこのことについて反応しないので自分からこの話をするのは少し憚られる。
こんな奇人たちを放っておいていいのか?
確かに、何か危害を加えてくるわけでもない。ただかぶり物をかぶっているだけだ。
私が過敏になっているだけなのか?

これがここ1週間で起きたことだった。
そして今、私の目の前にはコアラのかぶり物がある。
一昨日の晩、ひさしぶりに日本酒を飲んでいい気分になって気がついたら通販サイトのかぶり物のページを見ていて、気がついたらこのコアラを注文していた。
「ははっ、何買ってんだよ俺。」悪い気分はしなかった。そのまま寝てしまった。

満開の桜の木の下で、レジャーシートを広げてお花見をしている。
そこには私も座っていて、隣には大仏とおさかな天国ちゃん、向かいにはツタンカーメンがいて、他のレジャーシートでもありとあらゆるかぶり物の人たちがお花見をしている。
大仏はからあげ、おさかな天国ちゃんはマカロニサラダ、私はだし巻き卵を持ってきていて、ツタンカーメンが持ってきたのがどこから切ってもスフィンクスが現れる巻き寿司でみんなで死ぬほど笑った。
昔から知っている友人同士のように盛り上がり、このメンツで今度温泉でも行こうなんて話していた。
そんなときに大仏が何も言わずに立ち上がり、どこかに行ってしまった。
トイレにでも行ったのかなと思っていると、おさかな天国ちゃんもツタンカーメンも立ち上がった。
「えっ、ちょっと待ってどこ行くの?」二人は何も答えずに行ってしまった。
気がつけば他のシートにも誰もいなかった。
おかずと私と楽しかった思い出だけがレジャーシートに残されてしまった。
からあげを一つ口に放り込んだ。何の味もしなかった。
そこで目が覚めた。

土曜の夜には荷物が到着したが、馬鹿な買い物をしてしまったという罪悪感もあって箱から出しもしなかった。
次の日、流石にそのままにしておくのも気が引け、ビニール袋を剥がしてローテーブルに置き、コアラと見つめ合ってかれこれ2時間が経過して今に至る。
これをかぶってしまったら、これまでせせこましくも積み重ねてきた何かが崩れてしまう気がした。
しかし、これをかぶらなかったらここまでの2時間が無駄になってしまう。
昨今よく使う「コスパ」という言葉の功罪だ。
積み重ねてきた不確かな何かよりも失われようとしている2時間を取ることにした。
何かが崩れたとて大した支障はないか…デストロイ&クリエイションだよ人生は。
自嘲気味になりながらコアラの首部分を持って頭にかぶせた。
特有のゴム臭さが鼻に充満して不快感があったが、そのゴム臭さのせいか部屋の暑さのせいか次第に頭がぼうっとしてきた。
そして安堵感のようなものが訪れた。
自分が自分でも他の何者でもなく、他者の視線から解放されたような感覚。
なるべく人と自分を比べないようにしてきたし、競争の場にも出ないようにしてきた。
そうやって自分を守ってきたけれど、他者の評価から解放されたことはなかった。
しかし、このかぶり物をかぶっていれば自分は自分でも他者でもなく、あるいは自分でもあり他者でもあるのかもしれない。
他者との区別がないのならそこには評価など必要ない。価値は意味をなさない。
かぶり物をかぶっていた彼らはきっと、この解放感に病みつきになったのだと理解できた。
あの不気味な人間たちの心理を少し理解できたことに満足してかぶり物を脱いだ。
残った家事をやっている間も、本棚の上のテレビの横に置いてぐにゃっと顔の崩れたコアラと何度も目があった。
夕飯を終えてテレビをぼーっと見ていた。
ひな壇のお笑い芸人が大きい声を出して立ったり座ったりしている。
テレビ横のコアラとまた目が合った。
まぁ誰にも注目されないみたいだからあれかぶって外に出てみるか。
財布も携帯も持たず、コアラをかぶって鍵だけ閉めて外に出た。
ここ最近はすっかり夜も涼しくなって、半袖だと少し二の腕がひんやりしてくる。
温度差のせいで頭と首から下とで別の生き物になったような感覚に襲われる。
自分でもなく、何者でもない。だとしたら今ここにいる自分は何なのだろう。
そんなことを考えていると夜に溶けてしまいそうだ。

「こんばんはー。お兄さんお出かけですか?」
振り向くとそこには自転車を引いている警官がいた。
苦しくなるほどに心臓が波打つ。
23時にコアラのかぶり物をかぶって外を歩いている男なんて不審者以外の何者でもない。自分でも他者でもなくただの不審者だった。
「ちょっとお兄さん、聞こえてますか?」
深呼吸をして呼吸を落ち着けてから警官の方に向き直る。
「なんでそんなものかぶってるんですか?ちょっと外してくださいねー。」
と完全に警戒しているからこその優しい声音に少し傷つく。
そういえば少し早いけどもうすぐハロウィンだ。
「…すみません。ハロウィンパーティーがあってかぶったまま帰ってきちゃいました。あはは…。」
かぶり物を脱ぎながら努めて明るく言った。
「あーハロウィンね。コアラですか?まぁでも近所の人が怖がっちゃうんで外して帰ってくださいねー。」
目の前の不審者を記憶に焼き付けるように全身くまなく見つつ警官はそう言った。
「あっ、はーい。わかりました。ご苦労さまでーす。」
警官は自転車にまたがり去っていった。

耐えた。浮かれた季節に感謝。
しかし、大仏も魚もツタンカーメンも馬も犬も鳩も誰にも注目されなかったのに私は職質された。
私は憤った。コアラが良くなかったのか?有袋類に謝れ。
とぼとぼと家に帰る。今もし大仏に会ったら説教する。

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