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アイディア一発で勝負しろ!イノベーション目線で辿る浮世絵の歴史概論

こちらは、サントリーホールディングス様の学びのプラットフォーム「寺子屋」の5月22日(金)の講義のためにつくられたnoteです。このnoteをスライド資料のかわりに表示しながら講義を展開しました!(日々増強中なので実際に使用した資料とは異なります。)

おさらい①日本美術はアートではなかった!

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ではなんだったのか?極論すると「飾り」と「娯楽」である。

おさらい②浮世絵はプロダクトである

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アートとして作られたものではない浮世絵を私たちはアートとして楽しんでいる。そこがおもしろい。

おさらい③浮世絵は世界最高のポップアート

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おさらい④北斎はキング・オブ・ポップだ

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北斎のすごさ

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ここからが本題。まずは浮世絵を巨大コンテンツ産業としてとらえる

■すごいのは北斎だけではない! 
■浮世絵は版元が企画し、彫師摺師と協業し製作し、書店で販売した当時世界最大のコンテンツビジネス 
■庶民に愛され大量に流通した

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「絵草紙店」葛飾北斎(1802年)国立国会図書館デジタルコレクション 蔦屋重三郎が経営する書店「耕書堂」。

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「今様見立 士農工商 商人」歌川国貞(1857年)国立国会図書館デジタルコレクション

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絵師(国貞)、版元(魚栄)、改印、年月印(巴八)

極印と改印に関しては↑どうぞ

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版元の魚栄は広重の名所江戸百景も出版。

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「江戸土産之内」 「絵さうし見世」落合芳幾(おちあいよしいく)(1861年)

もっと詳しく江戸の出版事情を知りたい方はこちらをどうぞ。

浮世絵の歴史はイノベーションの歴史=浮世絵5.0

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■浮世絵の歴史はイノベーションの歴史でもある 
■浮世絵の歴史を絵師や名作の系譜ではなく、イノベーション目線でばくっととらえてみよう

*注意事項 今回のバクッととらえるはあくまでもイノベーション目線。各イノベーションは当該絵師がひとりでおこしたものではなく、版元、摺師、彫師など多くの人々の創意工夫によっている。

また、それぞれのイノベーションは時系列的に、かつ突発的に起こるものではなく、それぞれが干渉しあい、当時の政策や国内、および、国際事情に左右されている。

イノベーションに至るまでには数々の試みが出ては消えていき、その積み重ねが生んでいるという点では現代におけるイノベーションとなんらかわるところはない。

浮世絵には肉筆と版画があるが、今回主に扱うのは版画である。

浮世絵1.0「浮世絵誕生」

■キーパーソン「菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
(元和4年〈1618年〉 - 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉) 
■バックグラウンド「江戸の大衆文化の発展」 
■年代「1670年〜1690年くらい」

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「吉原の躰(てい)」菱川師宣 1681−1684年ころ Clarence Buckingham Collection 

●イノベーション①版画という生産様式を絵画に導入

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「吉原の躰(てい)」菱川師宣 12枚綴りの内1枚 Rogers Fund, 1918

before→肉筆画は有力者のもの、絵を所有するのは特権階級 
after→庶民が絵画を所有、絵だけで販売、「0→1」市場創出

浮世絵が誕生する前の絵画

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「地蔵菩薩」狩野探幽(17世紀半ば)Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015

●イノベーション②絵本を娯楽にした

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「和国諸職絵づくし」菱川師宣 1685年ころ 字より絵中心

before→本の中心は文字、絵本は絵師のための見本という意味 

文字中心の本が大衆の娯楽であったということも実は驚きだったりする。

仮名草子

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「薄雪物語」1632年 仮名草子。作者未詳。2巻。寛永9 (1632) 年刊。深草の園部左衛門が薄雪姫を清水寺で見そめ,艶書を贈ると,返書はあるが姫は従わない。数回手紙の贈答ののち,2人は契りを結ぶが,姫は左衛門の旅行中に病死し,左衛門は出家する。『うらみのすけ』に似た恋愛物語であるが,艶書の贈答がその大部分を占めており,近世における書簡体小説,艶書小説の最初の作。流行した作品であるが,当時においては小説としてより実用性を帯びた艶書文範として読まれていた。(コトバンクより)

絵本

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和刻「八種画譜」 1672年くらい 狩野派の絵師たちの絵手本

after→庶民の娯楽に、出版ブーム

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「好色一代男」上方板 作、画・井原西鶴 1682年 国立国会図書館デジタルコレクション

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「好色一代男」江戸板 作・井原西鶴 画・菱川師宣 1684年  国立国会図書館デジタルコレクション

●イノベーション③セルフプロデュース

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「武家百人一首」1672年ころ 町絵師として初めて署名を入れた。菱川吉兵衛

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before→絵師は御用絵師のみ 
after→町絵師の存在をアピール、その後のスター絵師を生んだ

●イノベーション④悪所を描いた

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北楼及び演劇図巻(ほくろうおよびえんげきずかん) 菱川師宣 東京国立博物館。吉原遊郭と芝居小屋を題材とした。

before→遊郭と歌舞伎は絵の題材ではなかった 
after→浮世絵の二大モチーフとなった

■菱川師宣はファーストペンギン

浮世絵2.0「錦絵カラフルショック!」

■キーパーソン「鈴木春信
(享保10年〈1725年〉?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉) 
■バックグラウンド「江戸バブル」「絵暦(カレンダー)の流行」 
■年代「1760年〜1770年くらい」師宣からだいたい100年

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「夕立」鈴木春信 1765年 Clarence Buckingham Collection

●イノベーション①見当の完成による多色摺り

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「雪の梅」奥村政信 1720年代 James Michener Collection, Honolulu Museum of Art accession 21569

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「雪中相合傘」鈴木春信 1767年 The Howard Mansfield Collection, Purchase, Rogers Fund, 1936

イノベーションの原動力となったのは絵暦だった。

■テレビがモノクロからカラーに 
■ガラケーからスマホに

●イノベーション②紙と技の進化による立体技術

着物の柄→から摺り

から摺り(からずり)
絵の具を用いずに、版木を強く押し当てて摺ることによって、紙に凹凸をつける技法。それによって、紙に無色の線が表現される。白い着物や白鷺の羽毛など繊細な表現によく用いられた。(現代の印刷でいうと、辞書のタイトルなどに使われる「箔押し」に似ている。)

雪の厚み→きめ出し

きめ出し(きめだし)
「から摺り」と良く似ていて、凹面の版木を作り、紙を当てて裏からたたき出して紙にゆるやかな凸面を作る技法。凹面を作る手間がかかるためか、春信の錦絵以後、あまり使われなくなる。

■技術や機能は淘汰され、経済の原理にあった使いやすいものが生き残り標準化する

●イノベーション③見立てや心理描写、画題の高度化

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「行灯の夕照」鈴木春信 1766年 Clarence Buckingham Collection

瀟湘八景は以下からなり、すべて湖南省に属している。(Wikipediaより)

瀟湘夜雨 [しょうしょう やう] :永州市零陵区萍島瀟湘亭。瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。
平沙落雁 [へいさ らくがん] :衡陽市雁峰区回雁峰。秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。
煙寺晩鐘 [えんじ ばんしょう] :衡山県清涼寺。夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜。
山市晴嵐 [さんし せいらん] :湘潭市昭山。山里が山霞に煙って見える風景。
江天暮雪 [こうてん ぼせつ] :長沙市岳麓区橘子洲。日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。
漁村夕照 [ぎょそん せきしょう] :桃源県武陵渓。夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。
洞庭秋月 [どうてい しゅうげつ] :岳陽市岳陽楼区岳陽楼。洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。
遠浦帰帆 [えんぽ きはん] :湘陰県県城・湘江沿岸。帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景。

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「夜の梅」鈴木春信 Fletcher Fund, 1929 黒一色に塗られた背景とのコントラスト

■主題やモチーフは技術の進化とともに高度化する 
■ユーザーの欲求もまた複雑化し商品構成やメディアは細分化する

■鈴木春信はスティーブ・ジョブズ

市場を拡大させた

浮世絵3.0「プロデュースの時代」

■キーパーソン「蔦屋重三郎」版元でありプロデューサー
(寛延3年1月7日〈1750年2月13日〉 - 寛政9年5月6日〈1797年5月31日〉)
喜多川歌麿」美人画
(1753年〈宝暦3年〉頃? -1806年10月31日〈文化3年9月20日〉)
東洲斎写楽」役者絵
■バックグラウンド「江戸バブル崩壊と寛政の改革」「狂歌(ブラックジョーク)の流行と規制」 
■年代「1790年〜1805年くらい」春信の錦絵から20年

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「ポッピンをふく女」喜多川歌麿 1792年ころ H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929

●イノベーション①大首絵

美人画をくらべてみよう

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「十体画風俗 武家の娘と犬」鳥居清長 1790年 Fletcher Fund, 1929

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「湯上りの女」 喜多川歌麿 1790年 Rogers Fund, 1914

■寛政の改革による締め付け 
■ぜいたくな紙、色、摺り、彫りの制限 
■構図にイノベーションが起こった

役者絵をくらべてみよう

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「三代目瀬川菊之丞の大和万歳じつは白拍子久かた」歌川豊国 1794年

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「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」東洲斎写楽 1794年 Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939

■大首絵の役者絵だけを集中的に出版→選択と集中 
■役者の個性をデフォルメし、際立たせる

●イノベーション②幕府との戦い

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「難波屋おきた」喜多川歌麿 1794年ころ おきたが16歳、もしくは17歳のころ。18歳のおきた、19歳のおきたも歌麿は描いている。

■市中の女性の名前を絵の中に入れることが規制された 
■狂歌で培われたセンスを絵画に発揮する

●イノベーション③覆面絵師による挑戦

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「中山富三郎の傾城宮城野」東洲斎写楽 1794年 

■素性のわからない謎の絵師が突如一流出版社で大作を発表 
■寛政6年5月に集中露出

●起業家としての蔦屋重三郎(1750−1797)

田沼時代:田沼意次が老中(老中在任安永元年(1772年)~天明6年(1786年))を務めた時代→蔦重22〜36歳

寛政の改革:松平定信が主導した幕政改革。天明7年(1787年)~寛政5年(1793年)→蔦重37歳〜43歳

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第1期 吉原遊廓のなんでも屋から版元に
幼くして吉原喜多川氏の養子となる
●1773年(23歳) 吉原細見(遊郭のガイドブック)の販売権獲得(軒先を借りての販売)。このころ吉原細見の出版は鱗形屋の独占状態
●1774年(24歳) 平賀源内が吉原細見の序文を書く
●1775年(25歳) 鱗形屋出版の恋川春町(1744~89)『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)が空前の大ヒット。黄表紙誕生
●1775年(25歳) 鱗形屋海賊版出版で罰金刑
●1775年(25歳) 版元として吉原細見をユーザー目線に改革(価格破壊、値段別、ランク別、場所別ガイド)
●序文を有名作家に書かせる(吉原細見のブランディング、有名作家との人脈づくり)
●吉原細見を年二回刊行するとともに自社出版物の宣伝機能を持たせる
●1776年(26歳) 「青楼美人合姿鏡」 出版 北尾重政、勝川春章
●1777年ころ(26歳ころ) 独自の店舗を構える
●錦絵の出版は27、8歳で一旦途絶え本格参入は37、8歳ころ
●廓内の流通網を掌握
●1780年ころ(30歳) 鱗形屋消滅

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「鱗形屋孫兵衛版吉原細見」(1741年) 国立国会図書館デジタルコレクション

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「蔦屋重三郎版吉原細見」(1793年) このころ吉原の遊女は約2900人

→「青楼美人合姿鏡」(北尾重政、勝川春章)出版。広告ビジネスを出版に取り入れる(岡場所との差別化を図りたい吉原の遊郭がクライアント)

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「青楼美人合姿鏡」 (1776年)北尾重政、勝川春章 国立国会図書館デジタルコレクション

第2期 ビジネスを拡大し一般書の版元に
●1780年(30歳頃:以下すべて頃) 吉原細見の出版権販売権独占によりビジネス拡大(独占は33歳頃から)
●浄瑠璃の正本(しょうほん)出版(27、8歳頃からスタートか?細見も正本も定期刊行物)
●吉原細見と正本を結びつける(浄瑠璃に遊女の名前を織り込む)
●朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)を起用して黄表紙(大人向け小説)出版スタート
●吉原が最先端コンテンツの発信地として機能
●教育書(往来物。スタートは黄表紙出版と同年。黄表紙も往来物も地本問屋が中心に商う)と流行小説出版(黄表紙:大人向けの絵入り小説)
●往来物は長期出版が可能な優秀コンテンツ
●31歳頃 狂歌ブームが巻き起こる(1783年ころピークを迎える)
●当時流行の最先端だった狂歌の世界に身を投じる(狂歌名:蔦唐丸)
●黄表紙や洒落本(しゃれぼん)出版をハブに武士、町人など身分を超えた知のサロンをつくる
●朋誠堂喜三二、大田南畝(狂名:四方赤良(よものあから))、喜多川歌麿、山東京伝など)
●1783年(33歳)  日本橋に移転(流通網と製作関係の権利を購入?)

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「金峰山艶色源氏」(きんぷせんよそおいげんじ) 富本正本 東京大学教養学部国文・漢文学部会所蔵

日本のカルチャーの歴史は本歌取りの歴史でもある。

●源氏物語→平安の色男、在原業平が光源氏のモデルとされる
●源氏物語「須磨」→在原業平の兄行平の須磨蟄居が物語のモチーフ
●百人一首の有名な↓も
「淡路(あはぢ)島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守(せきもり)」
行平の
「わくらばにとふ人あらばすまの浦に もしほたれつつわぶとこたへよ」を踏まえての歌
さらにそれを踏まえて紫式部は源氏物語の中で光源氏に
「友千鳥 もろ声に鳴く暁は ひとり寝覚の 床もたのもし」と詠ませている
●源氏物語をモチーフにして数々の小説や浄瑠璃が作られた

第3期 狂歌本や黄表紙で大ベストセラーを連発
●1783〜1788年(33歳〜38歳頃)
●33歳 「万戴狂歌集」(まんざいきょうかしゅう:「千載和歌集」(せんざいわかしゅう)をなぞる部立て)出版
●ピークに達していた狂歌の会で詠まれた歌の出版スタート(狂歌はそれまで詠み捨てだった)
●出版という場を狂歌に提供(出版という舞台で道化師を演じる狂歌師)
●出版や狂歌の会を軸に狂歌師、戯作者、歌舞伎役者がつながる(舞台は吉原)
●1785年(35歳) 大田南畝狂歌の質の低下を嘆く
●狂歌本や洒落本、戯作(げさく)で大ベストセラーを次々出版
●洒落本を完全に日向のものに
●山東京伝の洒落本や黄表紙を独占的に出版
●吉原本、草双紙、洒落本の流通網をないまぜにする
●1786年(36歳) 田沼意次失脚
●1787年(37歳) 寛政の改革による出版規制はじまる
●江戸が倹約ムードに包まれ吉原が不況に
●大田南畝が狂歌から退場
●武士作家が次々と戯作から退場
●1788年(38歳) 歌麿(35歳くらい?)を流行絵師に育て狂歌に絵をつけ話題に(読者に狂歌を募集)
●「画本虫撰」(むしえらみ)「潮干のつと」(しおいのつと)「百千鳥狂歌合」(ももちどりきょうかうたあわせ)
●歌麿の真価を狂歌絵本に見る専門家は多い
●狂歌本の出版体制が版元主導に変わる
●このころ錦絵の出版に本格参入
●歌麿の春画「歌まくら」
●1788年(38歳) 田沼意次失脚など政治風刺黄表紙が大ヒット(製本する時間がないため紙と糸がばらばらのまま小売に運ばれた。人口100万人の江戸で1万5千〜2万部売れた。)
●1790年歌麿の美人画大首絵が大ヒット
●1791年(41歳) 洒落本の出版点数20点

こちらのブログ↓めちゃくちゃおもしろい。

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「亀山人家妖」(きさんじんいえのばけもの) 朋誠堂喜三二 (ほうせいどうきさんじ)作 蔦屋重三郎 天明7 (1787)年 国立国会図書館デジタルコレクション 蔦屋重三郎が喜三二に正月の挨拶で来年の正月の絵本を依頼するシーン。

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「潮干のつと」朱楽菅江(あけらかんこう)編、喜多川歌麿図 耕書堂蔦屋重三郎 寛政1(1789)年

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「奇事茂中州話」(きじもなかすわ) 山東京伝 蔦屋重三郎
寛政1(1789) 田沼失脚にからんで処刑された旗本と遊女の話をベースに。

第4期 浮世絵出版と流通革命
●(第3期より)松平定信による寛政の改革で出版取締
●1791年(41歳) 山東京伝の洒落本出版により財産一部没収(山東京伝は手鎖50日の刑)。資本力低下
●書物問屋加入(草双紙不況、学問ブームと全国への流通網獲得)
●書物と地本の違いは単行本と雑誌の違いにちょっと似ている
●1793年(43歳) 浮世絵界の美人画ブームがピークに
●相撲絵、役者絵に進出(勝川派起用)
●1794年(44歳) 写楽の大首絵出版
●1795年(45歳) 本居宣長を訪問し「手まくら」江戸売出版
●ちなみに本居宣長は蔦重より20歳年上
●草紙・書物類の全国展開を図る
●1797年(47歳) 死去
●若手作家(曲亭馬琴、十返舎一九など)の大成

蔦重と宣長の関係で忘れることが出来ないのが、『玉勝間』の記事改変事件だ。
 儒学や儒者を批判した章を、ちょっと危ないですよと宣長に忠告したのがどうやら蔦重であったらしい。万事に慎重な宣長がその項目を差し替えたのは言うまでもない。
 戯作者・山東京伝が手鎖50日、版元蔦重が身代半減の重過料という筆禍事件を寛政2年に経験しているだけに、蔦重としては危ない橋は渡りたくなかったのだろう。この一件については、杉戸清彬氏『初版本玉がつま三の巻』(和泉書院)に詳しい。(本居宣長記念館HPより)

蔦屋重三郎と江戸の出版事情に関してはこの3冊に詳しく書かれている。が、読む時は性根を据えてかかってね。

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蔦屋重三郎 (平凡社ライブラリー)  鈴木 俊幸
蔦屋重三郎とはなにものか?本書はこの問いに、この人物が何のためにどんな出版物をつくって売ったか、をもって答える。するとすぐさま消し去られるのは、体制に批判的な先進的文化人といったイメージであり、見えてくるのは、吉原出自の宣伝巧者、堅い商売に専心し、出版を組み込んで遊ぶ戯作文芸の仕掛けを利用して、失敗知らずの本づくりをたくらむ商人の姿である。 

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江戸の本屋さん―近世文化史の側面 (平凡社ライブラリー)  今田 洋三
江戸時代のはじめ京都で、出版業は始まった。次いで大坂で、やがて江戸でも、本の商売が興隆する。読者層が拡がる。書目が変わる。統制の制度がつくられ、須原屋とか蔦屋とか、本屋たちの新しい経営戦略が展開される―出版を軸にして近世という時代とその文化を見直すとき、既存の歴史観の殻がやぶける。

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江戸の本づくし (平凡社新書)  鈴木 俊幸 (著)
黄表紙『御存商売物』のおはなしは、赤本、黒本、青本、洒落本、柱隠しに一枚絵、吉原細見、咄本…江戸の出版物が人の姿で総登場する、娘かどわかしのてんやわんや。絵の謎を解き、地口やしゃれを十分に味わうとき、草紙が息づく都市江戸の文化が見えてくる。

■蔦屋重三郎はウォルト・ディズニー 

■歌麿は? 
■写楽は?

浮世絵4.0「風景画という第三の画題」

■キーパーソン
葛飾北斎
(宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)90歳まで生きた
歌川広重
(寛政9年〈1797年〉 - 安政5年9月6日〈1858年10月12日〉) 
■バックグラウンド「江戸の旅行ブーム」 
■年代「1830年代〜1860年くらい」

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「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」葛飾北斎 1831年ころ H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929

●イノベーション①旅行ブームと風景画

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「冨嶽三十六景 駿州江㞍」葛飾北斎(1831年ころ)H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929

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「東海道五十三次 原 朝之富士」歌川広重 1833年ころ Rogers Fund, 1918

国立国会図書館HPより

江戸時代は政情が安定し、参勤交代によって街道や宿泊施設、乗り物等が整備され、貨幣の流通も進んだことにより、旅が安全、便利にできるようになります。庶民も平和な時代のもとで、経済的な力を付けてきました。民衆の旅は享保年間(1716-36)頃から盛んとなり、文化・文政期(1804-30)には旅ブームが起こります。

●イノベーション②海外からの技術を駆使−遠近法とベロ藍

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「東都名所」歌川広重 Clarence Buckingham Collection 画面左右両方向へ奥行きを描いた二点透視法を駆使。人物衣装の色も巧みに変化させている。

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「冨嶽三十六景 尾州不二見原」 葛飾北斎 Rogers Fund, 1914

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「冨嶽三十六景 甲州石班澤」葛飾北斎 Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939 メトロポリタン美術館

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「冨嶽三十六景 甲州石班澤」葛飾北斎 Rogers Fund, 1922 メトロポリタン美術館

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歌川広重「東海道五十三次 沼津・黄昏図」横大判錦絵 1883~1834年 22.6×34.4㎝ 国立国会図書館

ベロ藍

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江戸時代初期に墨摺絵(すみすりえ)から始まった浮世絵版画は、やがて多色摺(たしょくずり)へ発展します。ですが、青を発色させるのは難しく、初期の鈴木春信の美人画には露草(つゆくさ)が使われ、その後の東洲斎写楽などの役者絵には藍が用いられていました。しかし、植物由来の顔料は発色や色の定着に難があり、常に試行錯誤の繰り返しだったと伝わります。

そこに登場したのが、水によく溶け、鮮やかな色を保ちながら濃淡で遠近感を表現しやすく、変色することがない舶来(はくらい)のプルシアン・ブルー。まさに万能な青の顔料を浮世絵師たちは大歓迎し、“ベルリンの藍”を略した“ベロ藍”という名称が一般的になります。

■100年前に入ってきた遠近法を駆使した北斎と広重 
■ベロ藍を商業的に使った最初の浮世絵師は北斎だがやがて広重のイメージに 

●イノベーション③二人の天才によるグルーヴ

風景画ブームの先駆けとなった北斎72歳の「冨嶽三十六景」

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「冨嶽三十六景 山下白雨」葛飾北斎(1831年ころ)Clarence Buckingham Collection

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「冨嶽三十六景 凱風快晴」葛飾北斎 1831年ころ Clarence Buckingham Collection

冨嶽三十六景と同じ年に出版された広重35歳の「東都名所」

「東都名所 両国之宵月」歌川広重 Rogers Fund, 1918 広重が手がけた最初の風景画

冨嶽三十六景の2年後に出版された広重の東海道五十三次

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「東海道五十三次 日本橋」歌川広重 1833年ころ Rogers Fund, 1918

広重の東海道五十三次と同じ年北斎は「諸国滝巡り」を出版

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葛飾北斎「諸国瀧廻り 木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」 1833年ころ  メトロポリタン美術館

北斎の風景画はさらに続く

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「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」葛飾北斎 1834年ころ Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939

広重の風景画が行き着いた先

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「名所江戸百景 」歌川広重 1857年 The Howard Mansfield Collection, Purchase, Rogers Fund, 1936

追記:
シカゴ美術館絵師別公開点数

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ボストン美術館スポルディングコレクション
春信:338点 
清長:211点 
歌麿:410点 
写楽:52点 
北斎:528点
広重:2370点

■葛飾北斎と歌川広重、二人の天才がいたからこそ風景画は世界で賞賛された 

■芸術性の北斎、売り上げの広重(マーケットを教育)

浮世絵4.5「幕末のきらめき」

■キーパーソン
歌川国芳
(寛政9年〈1798年11月15日〉  - 文久元年3月5日〈1861年4月14日〉)、「歌川国貞
(天明6年5月19日〈1786年6月15日〉 - 元治元年12月15日〈1865年1月12日〉) 
■バックグラウンド「幕末」「天保の改革」 
■年代「1830年代〜1860年代」風景画とあまり変わらない時期

●イノベーション①SNS化

美人+名所

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「東都名所合 高輪」歌川国貞(三代歌川豊国)1854年 国立国会図書館デジタルコレクション

役者

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「嵐吉三郎の梅王丸」歌川国貞 1840年ころ Purchase, Arnold Weinstein Gift, 2001

武者

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「通俗水滸伝」歌川国芳 1827年〜  Kate S. Buckingham Endowment 町人たちはこぞって国芳の絵の刺青を全身に入れた。

西洋画

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「唐土二十四孝」歌川国芳 1843年〜 Gift of Mary Alice Metzger

落書き風

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「荷宝蔵壁のむだ書」歌川国芳 1848年ころ Restricted gift of Mrs. Daniel Green

●イノベーション②三枚続

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歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」1851〜1852年ころ 大判錦絵三枚続 © Victoria and Albert Museum, London

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「相馬の古内裏」歌川国芳 1844年ころ © Victoria and Albert Museum, London

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歌川国芳「近江の国の勇婦於兼」天保初期  ギャラリー紅屋

●イノベーション③風刺とパロディ

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歌川国芳「おぼろ月猫の盛」弘化期 団扇絵判 錦絵 ギャラリー紅屋

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源頼光公館土蜘作妖怪図 歌川国芳 1843年 © Victoria and Albert Museum, London 天保の改革を痛烈に風刺。源頼光→12代将軍徳川家慶(いえよし)。卜部季武(うらべのすえたけ)→水野忠邦(みずのただくに)。ちょうちん妖怪→富くじ。女性妖怪→芸者。「歯無し」→「噺」家。

幕府の締め付けによって遊女や役者を描くことはできなくなりましたが、動物や妖怪に思いを託してウィットに飛んだ風刺画や戯画を描き、人々はそこに仕掛けられたカラクリを解いて大いに笑いました。また、描けるものが限られたからこそ「子ども」という新たな主題も生まれました。“かわいい”絵が次々と発表されるようになったのもこのころです。

ちなみに歌麿が手鎖50日の刑を受けることになった絵

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太閤五妻洛東遊観之図 (たいこうごさいらくとうゆうかんのず)1804年ころ 喜多川歌麿 東京国立博物館 

■画題が多様化しニッチに 
■幕府のコントロールが弱まった 
■彫り、摺りの技術がピークに達する

■国芳と国貞はインスタグラマー

まとめ

浮世絵1.0→「浮世絵誕生」 
浮世絵2.0→「錦絵カラフルショック」 
浮世絵3.0→「プロデュースの時代」 
浮世絵4.0→「風景画という第三の画題」 
浮世絵4.5→「幕末のきらめき」

最後に

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