逆上がり公演が好きすぎて勝手に解釈した話vol.1

今回はAKB48のチームK公演の1つでもある「逆上がり」公演について解釈していきたいと思います。
Vol.1ということはVol.2もあるということです。たぶん。
 

4月25日から田口チームKで行われるこの公演ですが、知れば知るほど奥が深くなっていきます。
が!!!あまりにも深く解釈している(つもり)なので、いろいろ知らないまま公演を楽しみたい方は今すぐスマホをぶん投げてください。
 
 
 
これから先、この記事を読むにあたっての注意事項は

「逆上がり公演についてかなり熱く語っているので引かないこと」
 
「筆者であるありさちゃんはこんなに頭の中で考えているくせに、いざ劇場公演に入るとそんなん忘れてひたすら推しメンを見て振りコピをしている、ただの気持ち悪いヲタクをいうことを頭に入れてこれを読むこと」

です。


【逆上がり公演のセットリスト】

1. overture
2. 掌(てのひら)
3. 逆上がり
4. 否定のレクイエム
5. その汗は嘘をつかない
MC1
6. エンドロール
7. わがままな流れ星
8. 愛の色
9. 抱きしめられたら
10. 虫のバラード
MC2
11. フリしてマネして
12. 海を渡れ!
13. 街角のパーティー
MC3
14. ファンレター
アンコール
15. 不義理
16. ハンパなイケメン
MC4
17. To be continued.

今回は特に前半2曲について解釈していきます。


 
 
 

【そもそもなぜ逆上がり公演について語るのか論】


こちらの記事でAKB48にハマった1つの理由として「宮澤佐江ちゃんに一目惚れした」と記述しておりますが、宮澤さんにハマるとまずはチームKの学習から始まりますよね。
この「学習」という名の「自分が知らない時期を知る行為」は、ヲタク活動の中で上位にランクインする活動だなと思っています。学習を進めていくと「もっと前から知っておけばよかった」という感情と「今だから好きになった」という感情が入り乱れますが、映像や過去のSNSを掘っていくにつれて、結果的に好きなグループと好きな人の知識と色々な感情が大量に入ってきて、どんどん好きになっていきますよね。「推しメン」ができた時に初めて感じる感情であり、その先のヲタ活をするにあたってとても大事な時間だと思います。(個人の意見です)
 
2010年ごろにチームKを好きになった私は、当時はまだまだ在宅を極めており、ひたすらに映像を見ていました。
やはり鉄板でもある「草原の奇跡」「支え」「To be continued.」の3種の神器を中心に、「約束よ」や「引っ越しました」など「絆」「熱さ」「仲間」が感じられる歌詞だったり振付だったり雰囲気だったりを好んで見ていました。今思うと、私は高校時代のクラスでの出来事や部活動で仲間意識が非常に強く根付いていて、チームKのマインドが合っていたのでしょうね。「ここ(左胸を拳で叩く)が大事だぞ」的な熱さ。
 
話は逸れましたが、初代チームK逆上がり公演の「To be continued.」は見たことがありますでしょうか?
チームKの学習をしていた私はその映像を見て衝撃を受けました。
曲調に少し切なさがあり歌詞と合わせるとその情景がすぐに浮かぶ感じ、大サビでのチームKコール、野呂さんのイエーイのくだり、なにあの最後のジャンプ…わたしたちは1つ感すごい…となり、何度も同じ映像を観ました。
To beをはじめ、逆上がり公演を見まくっていた私は「とにかく逆上がりの宮澤佐江ちゃんがかわいい」「チームKの今までをまとめたような公演だわ…」と熱くなり、ただただ映像をむさぼるように観ていました。
 
時は経ち、昨年から歌詞を本当にじっくり聴く機会があり(#茂木ヲタによる48歌詞討論会)、改めて掌と逆上がりを聴いたところ、自分が年を重ねたこともあったのかグッとくる歌詞の連発でした。(後ほど記述します)
歌詞討論会についてはいつか書きたいな~と思っています(そうですか)。
 
そして今回、田口チームKで逆上がり公演が行われるということで、ヲタクと逆上がり公演を観ていたところ、寸劇の意味はあるの?なぜ前半曲に否定のレクイエムが入っているの?歌詞的に後半でもよくない?などとたくさんの疑問点が浮かび、勝手に解釈をしたくなってきました。疑問点について、まにーちゃんやあんりちゃん、ちょんきちさんと討論や殴り合いを重ね()、たくさん意見を聞いた後、自分なりの考えをまとめようと思った所存です。
 
ちなみにですが、お前暇なんか?という質問は受け付けません。さらに言うと忙しいです(そうですか)。
 
 

【寸劇】


逆上がり公演では掌の前に寸劇が行われますが、その寸劇の終わりに中原中也さんの詩が読まれます。

汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れちまった悲しみは
たとえば狐のかわごろも
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
けだいのうちに死を夢む

汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる


なぜこの詩を入れたのか、なぜ逆上がり公演にだけこの寸劇と詩がはいるのか、不思議でたまりませんでした。
そもそもこの詩はなにを伝えたいのか、自分で考えても答えが出ず、ネットでいろいろな人の解釈を調べたところ、私の心にすんなりと入ってきた意見があったので掲載します。

自分の悲しい思い出というものは、全て純粋なものであり、美しい思い出となっているんですよ。
何故悲しかったのか、ということが人間の純粋性に繋がっているわけ。自分の思いが届かなかったということが悲しみなんですね。本当に欲していなければ、人間は悲しいとは感じない。
全ての芸術の根源は、この「悲しみ」にある。届かなかった、出来なかったことを今、ここに語ろうとすることが、芸術を生み出す。
そういう自分の悲しみが詩人の中にもあった。しかしそれを「汚れちまった」と言っている。それはどういうことなのか、ということですね。
汚れたということは、純粋なものでなくなってしまった、ということなんです。
つまらない構文的な解釈をする人間もいるようだけど、そういう学校教育のような真似をすれば詩は死ぬ。
中原中也は、生きている間に名の売れた人間なんですね。詩人として、結構な詩を創作する人間だと目された。
そのことが若い中原に影響しなかったはずがない。
自分が詩を求めていく中で、自分がいつもどこかに名声を考えている部分があることを気付かざるを得なかった。
自分が悲しみをエネルギーに何かをしようとするたびに、詩人は悲しみを利用する自己を感じていたに違いないんです。
第一段では、自分の悲しみというものを客観的に見ている。まるで外に取り出して地面に置いたような状態ですね。それはただ汚れていることを認識しているだけで、そこに肌寒い、さらに少し薄汚れるような自然現象が描かれている。
これは詩人が自分の悲しみというものになす術もなく当惑していることを示しているんです。
第二段は狐の皮衣という表現が出てくる。これはつまらない獣の皮でとりあえず覆ってはみたものの、それが小雪によって縮んでしまい、かえってみすぼらしい、また一層汚れたものに見えるようになった、ということ。
つまり、自分が拙い足掻き方をして、どうにもならない苦しみを描いている。
第三段は自分が悲しみを持て余すうちに、もう悲しみが死に果てたいと思っている様を描いている。
詩人は何とか悲しみを純粋に思い出したいんですね。自分の欲望などと結び付かず、美しいものとしてただ甦らせたい。
それなのに、悲しみが死を望むということは、詩人自身が美しく思い出すことが出来ず、そこにさらに深い悲しみを抱くようになったことを示している。
この段だけが、「悲しみ」自体の意志を持たせているんですね。それは詩人の中で、悲しみがもう自分から離れてしまった、つまりもはや自分の自由になるものではなくなったことを歌っているんです。
第四段は自分から遠ざかった悲しみに、もう恐れしか抱かず、自分には手が出せない様子が描かれている。
中原は大事な思い出を失ったんです。その壮絶な悲しみというものが詩人として彼を前に進ませていたんです。

Yahoo!知恵袋

私なりのこの詩の解釈を解釈したところ(ややこしい)、
様々な柵によって純粋に生きることができなくなっていることを自覚して、どうにかその気持ちを取り戻そうと足掻くのですができず、純粋という美しいものといろいろな思い出を失ってしまい、自覚した時又は客観的に自分を見た時に「もう取り戻すことのできない(味わうことのできない)感情」を失った切なさ、さみしさ
を表しているのかなと思いました。
 
寸劇が終わると、1曲目の掌のイントロが流れ始めます。


【掌】


全体を見ると「優しい言葉を使い誰かを励ます中で、改めて主人公が自分ができることと人生について考えている曲」といった感じでしょうか。
 

ありさちゃんの中でグッときた歌詞をピックアップしていきます。
 
生きてくことは答えの出ない問いかけ
→生きていくと「これであってるのかな?」「このまま進んでもいいのかな?」など疑問を持ち始めた時に正解がわからないからこそ、ずっと自分に問いかけますよね。
 
自分の掌じっと見つめて こぼれる時間を知った
→悩んでいても時間は経っていくばかりというニュアンスを掌から時間が「こぼれる」という表現をしていてとても好きなフレーズ(康構文)です。
 
今日まで一緒に同じ道をきた僕らは仲間じゃないか
→でました、仲間というKっぽいワード() 何があっても仲間、マブ、私にもそのような仲間がたくさんいるのでここのフレーズでいつもしみじみしています。
 
自分の掌じっと見つめてこぼれる時間を知って
誰もみんな生きる意味求め思い悩み立ち止まるけれど

→純粋な気持ちをもって生きることがすべてなのか、今後生きていくにはどうしたらいいのかなど、なんとなくだはありますが、「生きる意味」というフレーズが特に先ほどの詩の雰囲気と連動しているような感じがします。



【逆上がり】


主人公が昔の恋愛を振り返る曲であり、掌とは違い、アップテンポな元気な曲になります。
 
セミの声が思い出させる
夏の日の白いブライスが汗ばんでいた
→このフレーズだけで夏に聴きたいってなりますよね。車の窓ガンガン開けて。
 
少し大人になって風景が違って見えるよ
→逆上がりした時の景色も、大人になりいろいろなことを学んで経験してから見る社会の景色も違うという意味かなと思っています。
 
なぜか泣けてくるのよ
知らぬ間にちゃんと回れること

→過去の片思いを思い出して泣けてくるという感情はもちろんのこと、大人になって当時の純粋な気持ちを忘れてしまった、知らない間に当たり前になっていることやできるようになっていることがあり、子供のころの気持ち(純粋な時)には戻ることができない切なさを感じているのかなとも捉えることができました。
 
 
この前半2曲では
「主人公がある意味人生を達観してしまった、悟りに達してしまった状態で、純粋な頃を思い出し、悩み、懐かしさを感じつつやはりどこか寂しさを感じる」
という共通点があると感じました。
 



【最後に】


このような曲の解釈と詩の雰囲気や解釈から、(曲を作成してから詩を見つけたのか、テーマをもとに詩や曲を選んだのかはわかりませんが)あの寸劇の詩からこの前半2曲への流れができたと考えるとしっくりくるのではないでしょうか??
 
この後続く否定のレクイエム、虫のバラード、海を渡れ、街角のパーティーなど、ある主人公が軸となり曲が描かれているのでは…と考えてしまう部分がありますが!!!
とても長くなったので、その部分については次回、書いていきたいと思います。
 
あくまでも私個人の解釈ですので、こういう解釈もあるよ、捉え方もあるよ!という方はコメント欄で教えてください!めっちゃ興味あります!

ということで、最後まで読んでくださりありがとうございました!
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?