何処かに所属することをやめたあと、自己を何に見出そうか

今日は8/31と8月最後の日だから、という理由でこの記事を書いているわけではなく、最近では専ら昼に起きて行・商・民訴・刑訴をやって論文書く、というあまりにも単調な日々を繰り返しているので、少しばかり他のこともやってみたいと思って、「そういえばこのアカウントで記事全然書いてなかったな」と思い立ち久しぶりに書いている。勿論整理はあまりできていないが。

この記事の一つ前に書いた記事がこちら

自分とは如何なる存在か?と聞かれたときに、皆さんはどう返答するだろうか。大抵であれば、自分の名前をいうことから始まり、日本人です、とか○○で働いてます、とかそういった所属先を答えるのではないか、と若造ながら勝手に想定している。日本人、というのも実は『日本国』に属する民、という所属を意味する表現であると思っていて、そういった「所属」から脱却してみたいなぁ、みたいなことを書いているのが上記記事です。

でも、所属から脱却した場合、自己形成の元となる事項の大半を捨て去ることになるんじゃないか、とも思っています。まぁ自分っていうのが何かを考えた時、「日本人です」とかいう表現を使えないのだから、自分を形作ることができる強力な材料がないんだから、じゃあどこに自己を作る材料を見つけようか、と思うのはあるのではないかとも思っている。

勿論、何もそれは一つに限ったことではないし、あくまで僕が勝手に考えているだけのことで、みんながみんな所属から脱却、となってたのではそれはそれで些かの怖さを原因は不明ではあるけど感じてしまう。いつも言っていることなのだが、話半分の気持ちで聞いてくれるのが一番いいかもしれない。

さて、本題に戻るけれど。まぁ僕は「何をしていくか」とか「何をしているか」とかいうものでいいのかな、と思っている。というよりもアイデンティティとか言うのはそう確固として持っておく必要もないのかもしれない。自分がこれから先何がしたいのか、とかいうのが持てているならそれで十分なのではないかとさえ思っている。例えば僕は法律を学んでいるし、将来は法律使った仕事をしたいな、とかそのくらい。んで、さらに法律とか、あるいは文学とか、そういう事項のカテゴライズも無視したいから、「何かをしたいな」という感じ。事項のカテゴライズを無視すれば、なかなか事項の表現が難しくなるように感じているけど、事項も「何か(something)」ということができそうなので、そういう表現をしている。できるだけカテゴライズエクスプレッションは用いず、使うのは便宜上だけの場合にしていきたいなーと思ってはいる。

んで、そういったカテゴライズやら所属といったことを無視して「何か」というもので自己を考えるとき、果たして「固有性」は見出せるのか、というのは考えてみると面白いかもしれない。というのも、僕以外にも法律を仕事に使っている人はたくさんいるし(弁護士、というカテゴライズエクスプレッションを使うなら、弁護士なんてごまんといる)、一般企業という場で仕事してる人もうじゃうじゃいるし。そうなったとき、自と他の区別もあいまいになっているように感じた。なぜなら、もしアイデンティティを「自己の固有性」と考えるなら、自分以外にも何かをしている人なんて山ほどいるし、言葉悪く言えば、人間なんて所詮は代替物みたいなものということになろう。人=物なのです。あなたの代わりはいくらでもいます。だったらあなたのやりたいことをやりたいだけやればいいだけのことではないですか。自分という個体の中にある意思のままに。まあ「君の代わりは何処にもいない」とか「かけがえのない存在だ」とかいう表現は聞いてきたけど、当初からそれについては懐疑的で、「所詮は同情程度の慰め発言だろ、なんかキモイな」としか思っていなかった。しかも、自分と他人とが相互代替的関係にある、となったとき自と他の境界は漠然化若しくは消滅することになろう。だってそこには固有性が否定される以上、わざわざ自と他の区別をする必要がないのだから。

すこし逸れるけど、ワンパンマンって知ってる人多いと思うんだけれど、あのサイタマっていう名(ラベル)を有する奴の自己紹介、あれ結構いいと思うんだよね。

「趣味でヒーローをやっているものだ」

自己とはああいう程度のもので十分だと思う。自分が何かをしているけど、それをとりあえず便宜上の観点からカテゴライズエクスプレッションに基づくラベルを張り付けるならとりあえず「ヒーロー」ということになるだろうし。そもそも元々サイタマってヒーロー協会入ってなくて、ソロで活動してたからね?活動の支障になるから協会入ったようなもんだろうから。それにヒーローとかいうのやってる人なんていくらでもいる中で、自分がやりたいから、という理由からいくつもある選択の中からあれを選んだ、と解釈している(原作もアニメもろくに見てないけど、勝手に解釈するのはこちらの勝手)。自と他の区別が漠然としているのもなかなか良い気がしている。

まぁ、もし固有性を無理に持ち込むなら、「その選択をした自分自身」といったところになるのかもしれないけど、別に必要ないだろうし、その選択した他の個体は山ほどいるからまぁ、固有性の表記にはなってないだろうな。

そんな感じで、じつはInstagramのプロフィールにも「何かをしています」と書いている。カテゴライズが無くなればいろんな分野での区別は無くなっていくだろうから、差別的な行為もなくなることは一応は可能なんじゃないかなぁ、とぼんやりながら思っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?