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ポルノグラフィティ「まほろば○△」について〜セックスを超越した女のおもしろさ〜

まほろば○△

家賃今月払えないからネット乞食してます。
お仕事ください。グッズも売ってます。

歌詞の読みがうまい人見つけた

今回の記事は、作詞論、女性論、作品批評みたいな内容だ。

ポルノグラフィティのマイナーな曲「まほろば○△(まるやま)」が中学生の時からすごく好きで、この歌詞素晴らしいなと思っていた。そしてどうして美しいのだろうと調べたら、「読みがうまい人」のブログを見つけた。

この方がどうしてうまいのかというと「テクスト論」的に読めているからだ。テクスト論とは文章同士の関係だけで読解をする行為である。この方の読み方を参考にしながら読んでいこうと思う。

この曲は「一夜限りの男女の関係」というディープな歌である。

では見ていこう。

『まほろばのピンヒール 直接な口づけがcock-a-hoop
 今宵生まれては今宵消え行くままの恋じゃない
 だから見せつけて 透明の向こう側のシャワーシーン
 大都会午前25時 帰れない 帰しはしないから』

まほろば○△

僕も素人で作詞を作り始めた。すると歌詞を作る行為には高度な知性が求められているということに気が付いた。

例えば、歌い出しの初めの歌詞で「恋愛には発展しないディープな大人な関係」ということを端的に示している。つまり要約力が求められている。論理力とか情報の取捨選択する力が必要だ。

しかし自身で作詞してみると、まずそもそも世界観が「パリっ」とまとまらない感じになったり、「ふわっ」とした世界観になる。B'zの稲葉さんが歌手として歩み始めたときに「薄い内容をながーーく書いてる歌詞だね」と言われたことを振り返っていたことがある。

だから作詞初心者はまずそもそも要約力にたどり着く前に、情報提供力に欠けていることがある。要約とは、たくさんの情報量を切り捨てた後の行為である。しかし初心者はそもそも情報量がない。要約するに足りない。連想力がものすごく足りない。頼りやすい動詞と名詞に限定されがちである。

情報量とテーマ性、ボトムアップ型とトップダウン型の両輪思考、木と森をみる力、「なにを足し」て「なにを引く」のかの中で考えること、まるでデッサンのように細部と構図全体を見比べの技量がまず必要である。

ただそれだけでは人は感動しない。
曲の世界観に入り込めない。
業務報告になってしまう。

「恋愛には発展しないディープな大人の関係」ということを「恋愛には発展しないディープな大人の関係〜♬」とそのまま歌っても意味がない。ただ論理力、要約力があるだけではダメである。その上に芸術力が必要とされるのが歌詞だ。だから理性と感性の両輪をフルで稼働させる高尚なクラフトが歌詞である。

その中でこのAメロの新藤晴一の詩作の美しさをカメラアングル的だと評価する。

映画のワンシーンみたいなの。
カメラが次々に切り替わる。
その視点がすごく雄弁。

彼女のピンヒールのアップ。唇のアップ。
彼にパン。
そしてガラスごしのシャワーシーンにパン。
そして一気に全てをフレームアウト。突き抜けて夜空から街。

歌詞の中で、ものすごくカットが切り替わる。
だけど不要な場面は何もないし、
ただそこに置いてある回しっぱなしの定点カメラの視点なんかよりずっと、
彼や彼女に、その内面に、肉薄してる。

http://nekomatsublog.seesaa.net/article/441659595.html

あーすげーー歌詞ってそーやってかくのかぁーーーー

考えたこともなかったなぁと思う。
あとその歌詞ってそうやってみるのかぁーーーってゆー。

また本ブログの「透明」という使いかたについても分析も面白い。形容詞などで使われやすいものを名詞として使うことに注目されている。「透明」という「何もない」ものを名詞と使うこの点的な技術もなるほどと思う。

『もっと裸でタブーを泳ごう 知らない君の奥深くを
 体でわかりあいましょう
 声にならない声が今 何よりもおしゃべり』

まほろば○△

ブログではこの「裸で」という言葉にダブルミーニングがあると読み解かれている。実際の肉体の交わりと、感情を素直に伝えるという「裸で」という比喩だ。

『広いベッドの下で君は飛ぶと叫んだ後
 のけぞり僕の上で どこまでも淫ら落ちるという
 所詮知らない名前を呼ぶこともできはしない
 大夜会 未明の渋谷 風のないこの坂の上』

まほろば○△

問題のシーン。
「広いベットの下ってどこ?」という問題。

広いベッドの下って…どこ?
1.文字通りベッドの下(ベッドと床の間)
2.ベッドの横の床

歌詞をよく見たら、「上」も出てくるじゃない!
ということは晴一さんのことだから、
この反対語は、対比のために出してきた言葉。

もしかしてさらに対比が…あ、あった!
「飛ぶ」と「落ちる」だ!

あ!
「飛ぶ&落ちる」は、
意味的に「上&下」に対応してる!!

しかも、
ベッドの「下」→「飛ぶ」
僕の「上」→「落ちる」
って、逆になるもの同士を組み合わせてる。

http://nekomatsublog.seesaa.net/article/441659595.html

ここの読みがめちゃめちゃうまい。
何がうまいかっていうと「テクスト論」的に読んでいるから。
文章の中で編み物の絡み目を取り出すように読んでる。美しい読み方をしている。

また後半の『大夜会 未明の渋谷 風のないこの坂の上』は
一番の歌詞の『大都会午前25時 帰れない 帰しはしないから』と呼応してることも指摘してる。

つまり「午前25時」から「未明」の時間に。
「大都会」から「渋谷」という場所の焦点の絞り。

また「風のないこの坂の上」の坂の「上」という言葉が使われていることも注目的である。

「飛ぶ」→「下」
「上」→「落ちる」
飛ぶとあとは下に落ちるだけで、上に座標あるものは落下するだけである。

というコンテクストの中だと
「上」→「落ちる」
「坂の上」→「落ちる」ということになり
坂の下を降りているときにはもう二人の関係は「元の他人へ」ともどるということが読める。

『なぜに体と気持ちを競わす?そういう自虐的な趣味なの?
 無理に演じたりするから
 「君は強い女」だからってふられたりしたでしょう?』

まほろば○△

これが書けるからプロはプロである
天才とはこういうことなのである

ただの素人がずけずけと踏み入ることはあまりにも僭越。これまでは身体の交わりまでの情景に描写が当てられていたが、二番のサビにきて初めて心情の描写に入るが、その描写があまりにも重厚。「一夜限りの関係」では修飾できない関係になっている。まぁ一夜限りの関係なんだけども。

この心情描写の何がすごいかというと、この描写が描かれることによって新しいエピソードチャプターが追加されてるのだ。

つまり今までは
チャプター1「ホテルでの二人」
チャプター2「交わり」

という流れだったがこの心情描写が入ることで、
チャプター0「ホテルに行く前」という新チャプターが追加されてるのだ。
「強いヒトっていわれてフラれたんだよね〜」と女性が言った二人の会話が存在することになる。バーかどっかか知らんけど。

心情描写が情景の描写として重奏的に描かれていることになっている。
心情描写とは情景描写である。

中学生のときに聞いた僕は「大人の恋愛はこんなにかっこいいんだな」と思い、こじれた。「きっと25〜30ぐらいの恋愛はこうであろう」と過信する人は間違いなくポルノグラフィティの影響である。ディズニーランドを子供騙しと思う人は、同じようにポルノグラフィティの夢に欺かれている。

なぜこの「『君は強い女』だからってふられたりしたでしょう?」にロマンを感じるのか。そこには女性の醍醐味があるからである。ちなみに本題から少し外れるが、三島由紀夫が「若きサムライのために」でかかれたエッセイを見ていただきたい。「快楽について」で女性を花柳界で買うということについて話している内容である。

人々はまさに金をもってこの快楽を買うことができる。ばあさん芸者を一人と、年増芸者を一人と、若い芸者を一人と、半玉を一人と、四人を自分のまわりにはべらせれば、女というものの持つすべての要素、愛らしさ、清純さ、美しさ、成熟、粋な意地の悪さ、セックスを超越した女のおもしろさ、あらゆる角度からの女が自分を取り囲み、その性の万華鏡の中に身を置いて美酒に酔いしれながら、快楽の真っ只中にいると感じることができる。

三島由紀夫「若きサムライのために」p57

三島の文章は魔術的にウマい。
「愛らしさ、清純さ、美しさ、成熟、粋な意地の悪さ、セックスを超越した女のおもしろさ」これは年齢に応じた捨象(具体性を捨てて抽象的なものを取り出す行為)である。女性が果実だとしたら、これらは年齢という肉体の皮を向いたときにあらわれる層である。すべての要素は一人の女性に内在していて、「美しさ」がある女性から現れているとしても、その奥には「成熟さ」はある。

女性という果実の最後に残るのは「セックスを超越した女のおもしろさ」である。
やっぱ三島文章旨すぎんだろ。

これは花柳界での「女を買う」という行為の中であるが、女性という生き物の秘めた美である。

これを踏まえてもう一度新藤晴一の歌詞を見てみよう。

『なぜに体と気持ちを競わす?そういう自虐的な趣味なの?
 無理に演じたりするから
 「君は強い女」だからってふられたりしたでしょう?』

この歌にハッとさせられ、瞬間最大風速を感じるのはここに「セックスを超越した女のおもしろさ」を感じられるからである。
肉体の交わりの中で肉体を超越した女のおもしろさを発見したのである。

ブログではこことサビの「裸でタブーを泳ごう」が対応が取れてると読んでいる。
つまり「無理に演じ」てるから「(素直な気持ち、赤裸々な気持ちという意味での)裸でタブーを泳ごう」という対応が取れているのである。

『まほろばの光を見て 焦がれる悲しき性よ
 爆ぜては元の他人へと
 恋にならない恋が今 夜のしじまに消ゆ』

まほろば○△

以上素人の「まほろば○△」に関する考えを述べた。
実際に自分も創作してみることによって、物事に関心が深くなるので今後もやっていこうと思う。


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