恋の一般論。失うものがない人生の方がいい。
聴くと抑揚のある歌詞は、書き出して文章にしてみると余計にその内容が良く分かる様な気がする。宇多田ヒカルの歌詞はそのようなものが多い。
冒頭の歌詞、かつての自分にもそう考えている時期があり、そう思わせられる人がいた。残念ながらその相手とは別れてしまい、今までの人生にはないほど深い後悔をし、自省をし、自分に対する不甲斐なさをいつまでも引きずっていた。それでも一定の時が経ち、ある程度立ち直ることができるようになった。その分水嶺を超えつつある今を、一つの文章として形に残しておこうと思う。
果たしてこの文章を公にすることに意味があるのか、自分には分からない。ただ、ある種の物事というものは自分の中に留めておくよりも外に向かって吐き出したほうが、少なくとも何かしらの救いにはなる気がする。それは自分を救う行為でもあり、もしかしたら他人を救う事があるかもしれない。
誰かを好きになって、その人のために尽くそうと思えることはとても素晴らしいことだと、経験からそう考えている。一方で"恋は盲目"とはよく言ったもので、全て始まりのあるものには何かしらの終わりはある。そのことに無自覚であることはとても危険だ。自分はそのようにして大事な人を失った。
今はそれを痛いほど理解しているつもりだけれど、何かを分かっていることと、それをわかっていながら変化という行動に移せることは違う。それは拘りやプライドといった自己防衛が働いてしまうからで、それを克服するためには勇気が必要である。
それでも、人はそう簡単に勇気を持つことはできない。心から大切にしていた人を失う経験をすると(それがたとえ100%自分のせいだとしても)、次もまた同じ結末を迎えてしまうのではないか、どれだけ自分を変えようと努力した所でそれが報われるとは限らない。そう思ってしまう。
"本気は還(かえ)ってこない"
これが、自分が二十数年生きてきて、また失恋という衝撃的な経験をして今強く感じる事だ。つまり、どれだけ本気で何かと向き合ったとしても、自分以外の要因によって物事はいとも簡単にくずれ、失われ、消え去っていく。一度それを経験しまうと、これから先も同じ事が起こってしまうと想像してしまう。だから努力は無駄であり、変化は無意味で、恋は残酷だ。
もちろん努力は自分を成長させてくれるし、変化しようとする事は成長の土台となる。ただ自分がどれだけ努力し、変化して成長したとしても他人を変えることはできない。努力や変化や成長は自分の糧にはなるけれど、幸せへは導いてくれない。
とある小説のワンフレーズ。努力や変化や成長は無意味だと前述したが、例外として、大切だと思える相手とその過程を共にできた人達こそが、恋愛というものを上手くやっていけるのだと思う。
恋をするというのは、最終的には勇気の問題だと思う。失う覚悟を持つ勇気、憎まれる覚悟で振り切る勇気、過去には戻れないという事を半ば理解したつもりで未来を描く勇気。その恋が一時的なものでも、あるいは恒久的なものだとしても、人は大小それなりの決心をするからこそ恋をするのだと思う。
少し長めの引用になってしまった。言いたいことは、失恋のきっかけというものは常に目に見えなくて、振り返って後から分かることが多い、ということ。自分も恋の渦中にいることは別れのきっかけについては無自覚だった。別れてから「あの時...」と後悔しかと事が何度あったか。
関係性が長くなると慢性化する事は増える。だからこそお互いが足踏みをそろえて成長する事が大切だし、逆に、お互いのズレというものが少しずつ出てきてそれが慢性化して、最後の方には何が不満なのか分からないままに終わってしまう。それが恋の一般論だと思う。
長文となってしまったが、恋をするという事は、"いつかは失われてしまうという儚さと対峙しなければならない"という勇気を要する。
残念なことに、失うものがある人生より、ない人生の方がずっといい気がする。そして、そういう初恋を経験した人達がある程度世の中には存在して、時間の長短は別として、日々、あるいは断続的に悩み、落胆しているであろう事が想像できる。
そういう人達に届く文章になっていれば幸いだと思う。
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