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20200429-30

『チオベンの弁当本』に載っている千織さんのオリジナル調味料の海老醬を作ってみようと買い物に行った。1軒目のスーパーで、ボイルホタテを探せど探せど見つからないので冷凍ホタテを買う。
2軒目のスーパーにあった。
舞台芸術界のセクハラなどハラスメント勉強会の、相談窓口リストを作成するグループのオンラインミーティングが始まる15分前で、冒頭は聞くオンリーになるかもとメールし、急いで帰宅。
zoomを立ち上げてから、買ってきたもののうち海老醬の材料を袋から出して、それ以外を冷蔵庫に入れる。作業中にコーヒーのフィルターを買い忘れていたことに気づく。その前の日も外に出たついでに買おうと思っていたのに忘れていた。
みんなはCOVID-19の余波についてや、メンバーのひとり、アメリカでアーツマネージメントをやっている奥田さんらが立ち上げた支援情報(日本の)ポータルサイトについて、など話していた。

グループでは、どの窓口はどういう層向けだから、どこまで説明するかとか、この言葉づかいではこう受け取られる可能性がとか、細かいことを話すから、ミーティング自体、現状みんな仕事がほとんどできないせいもあって2-3週間に1回のペースになってきているものの、リスト作成ももう2ヶ月近く作業している。遅い。以前、同じ業界のジャーナリストや批評家を名乗る人たちからの、花火みたいな派手なアクションではないからか、期待はずれみたいな評価を聞いた。意見はもちろん、他人のどの言い回しや動作が気になるか、みたいな個人差があったりするから、グループ内で誰かが傷つくことが起きないようみんなとても慎重で、語りを聞くし、遮らないように努めていて、沈黙も少なくない。そういう速度を大事にしたいし、だからこそ信頼して協働できると感じている。

会話に参加する前に、ミュートの状態でアイラインを引く。このあいだ届いたFenty Beautyのアイライナー3色のうち「PAPAYA MAMA」という呼称の、ピンクの。Aがたくさん並んだ名前。

ミーティングを終えてから、『荻上チキ Session-22』を聴きながら、賞味期限が2年以上前に切れているトマト缶を開けてみたらいけそうだったので、酒粕で豆乳クリームを作って、あわせてソースにして(その下ごしらえはミーティングの「聞く」ターンごとにミュートにしてやってた)、海老醬には不要になった冷凍ホタテと、あと玉ねぎを具にして、パスタを作った。冒頭、南部広美さんがいつも読み上げる今日のニュースヘッドラインで噛んでしまい、「ごめんなさい、言えなかった。もう一回、頭から」と言ってから読み上げ直していた。笑いながら感動して、涙が出た。南部さんは素直で、そして丁寧。

夜中に、近所の朝までやっているマーケットに歩いて10分強、もしかしたら現状を踏まえて開いてないかもしれないと思いながらも向かった。コーヒーのペーパーフィルターとNAIL HOLICのポリッシュを1色買う(安くてコスパがいいやつ)。帰りにセブンイレブンでシュークリームも買ってしまう。物流がある。

いつも詰め替え用を買っているmethodのハンドソープ、緑茶とアロエのを注文しようとiHerbにアクセスするも、どの香りも売り切れていた。10年以上iHerbを使っていて、こんなこと初めてだった。

それから海老醬を作った。材料を刻み終えながら、実は最後にフードプロセッサーで撹拌する工程があると確認したのだけど、うちにはなかった(前に無印で買ってあったはずなのに見つからなかった)。翌朝、千織さんに確認したら、材料をみじん切りにするとき細かくやっておけば、それでも大丈夫と言われたので、それで。ボイルホタテだけ、粗みじん切りのままだった。

「7日からかつての日常に戻ることは困難」と、5月6日までと宣言されていた緊急事態を延長すると、安倍晋三首相が語っていた。そもそも「かつての日常」もわたしにとっては不確定で、きっとそれは少なくない人にとってもそうだったはずだけど、多くの人にとってはそうではないものとして見えているようで、だから「いつも通り」に戻りたいという欲望に向けた言葉なのだろうと思うものの、まちがいなくCOVID-19の実態やそれとの付き合い方はまだ不確定なはずだから、現状はまず「かつての日常に戻ること」なんかより(まあやっぱりそんなものないよねと思うけど、そういうものがあるという層がやっぱりいるのだろうから、ないよねという前提の言葉は人を動かさないかもしれない、わからない、どうなんだろう)、そこに向かうための、ある程度の沈静化に向けてのさまざまな政策、そのためのビジョンの提示が必要なはずなのに、この人にはそういうものがないらしい。

iHerbで買ってあった、「PEAKfresh」という野菜や果物の鮮度を保つ袋に入れてあったインゲン豆とスナップエンドウのうち、前者にカビが生え始めていてショックを受けながら捨てた。後者を、残っていた冷凍ホタテと、あときゅうりのスライスといっしょに炒めて、海老醬で味つけして食べた。スナップエンドウは軽く茹でてから炒めたほうがよかったかも。それから昼間観ていた『マッドマックス FR』を途中から。フュリオサはやっぱりかっこよかった。劇場で2回観て以来だったけど、今回の「Remember me?』で大号泣。『ハイエナ』の余波もあるのかもしれない。

世代に区切って話をされると、ぽっかりと空いたところに自分が落ちている感じがする。20代はトランジションでほとんどまともな社会生活を送れなかったし、奨学金をとって行った大学も、トイレや書類・学籍の性別欄や名前など学内インフラや制度の変更を求めるなか、わたしにとって通うのが著しく躊躇われたりもする環境もあって、授業にまともに出られず中退した。資格もない。
なにかをはじめるのに年齢なんて関係ないと言う人たちもいるけど、就職にしろ就学にしろ、その援助制度など含め、年齢の足切りがあったりするし、30を超えて、そのとき提示された原稿料の高さやある特定の編集者との個人的な人間関係に救いを求めて、藁にもすがる思いで書く仕事に就いたものの断定的なことを書いたり情報整理が不得手でライターとしてはうまく波に乗れず、いつの間にか8年近く経ってて潰しがきかなくなってしまった。後者の、「そのとき提示された原稿料の高さやある特定の編集者との個人的な人間関係」に目が眩んだ自分が悪かったのではと思ったりもする一方、無自覚な他者化、偏見の暴力、悪意ない不当な扱いなどによって信頼を築くのが苦手な面もあるはず、という実感から、それってわたし個人のせいなんやろかと思ったりもして、わからなくなる。いわゆる30代後半の人間として求められる何かみたいなものに応えなければという社会的な自分と、それに応えられるだけの体力がない不遇のあいだの一方、多くの人たちが一般論として世代で切り分けて話ができる、そのコミュニケーション空間には自分が存在しないと感じることがあって、昨日今日は、そういう具合だった。
こうした不遇に置かれていることを指して差別だとやっと言えるようになったのは、清水晶子さんとそのゼミ生らが行ってくれていた、東京大学での公開講座「クィア理論入門講座」を通して得た知識、そこでできた人間関係のなかからさらに得た別の知識(ユーロセントリズムとか、価値基準についてとかね)を通して、やっと自分の置かれている状況を把握できたから。

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