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現代の悲しい象徴? 「マウンティングおじさん」

私は転職が多く、職場が頻繁に変わるのですが、今年になって「マウンティングおじさん」に直接遭遇するようになりビックリしています。

本当にいるんだ!

「マウンティングおじさん」の生態については、すでに多く語られているので割愛します。ここでは「本当にいるんだ!」という純粋な驚きと、遭遇後に引きずるある種の気持ち悪さを考察したいと思います。

「聞くこと」ができない「暇な人」

この種の人たちは、以前の職場であまり見かけませんでした。これまで私が出会ってきた「シニア」と呼ばれる人たち(マネージャーや経験豊富な人たち)は、「リスニング」のトレーニングを特別に受けている人も多く、「自分が話す」ことよりも「相手の話を聞く」ことに価値を置いていたように思います。

私見ではありますが、平均年齢が低めの外資系企業では「マウンティングおじさん」に遭遇する率が下がるように思います。こういった企業では、「リスニングの重要性」が広く認知され、少数派のおじさんたちも純粋に目の前の仕事に忙しくしていることが多いように思います。裏を返すと、「マウンティングおじさん」であることは「話を聞けない暇な人」であると言えるかもしれません。

遭遇すると、なぜ不快なのか?

ここで明言しておきたいのが、「思い出話や過去の武勇伝を、おもしろく話してくれるおじさんも多くいる」という点です。そういった人たちと「マウンティングおじさん」の違いは何なのかを、少し考えてみました。

多様な価値観を前提にしない自慢話

マウンティングおじさんの過去の自慢話には、聞き手の多様性が前提とされておらず、結果的に聞き手から共感を得られないものがあります。たとえば「むかし、○○億円の巨大プロジェクトに携わりました云々」と話をされても、聞き手が「そういうストレスフルな仕事はしたくないよねー」と感じるようであれば、その話は自慢話としては不成立です。

しかも、その話にオチもなく、「興味をもって聞いている」または「話のすごさに感嘆している」ような反応が暗に期待されれば、聞き手にとってその話は「めんどうくさい」ものになります。

イライラしてはいけないというプレッシャー

マウンティングおじさんの話は「大人な態度でサラッと聞き流そう」というのがセオリーだと私は思います。理論的にはそうなのですが、感情的には処理しきれない場合も多くあります。その場合、単純におじさんの話にイライラさせられるのに加えて、「イライラを抑えられなかった」という敗北感でさらにイライラするという「負のループ」に聞き手が陥ります。

話のタイミングがビミョー

現代のように膨大な情報を処理する時代では、ことさら「タイミング」と「プライオリティ」を考えたコミュニケーションが仕事では求められますが、マウンティングおじさんはそれができません。

周囲の人は、マウンティングおじさんの過去の経験や偉業に関心がないわけではないはずです。相手の人となりを知ることは円滑なコミュニケーションに不可欠なので、聞きたくないわけではないのです。ただ状況を考えずに一方的に「自分の話」「自分の価値観」を押し付けられることが、聞き手の負担となってしまいます。

余裕のない現代の象徴

これだけ書くと、マウンティングおじさんの話は聞き手の「忍耐」と「気遣い」の上に成り立っているように思えます。でも「それくらい許してあげる広い心を持とうよ」とも自分に対して思います。

今は「人の存在に対する尊重」を、これまでの方法では感じにくい世の中になっています。慌ただしく流れる時間の中で、「忘れられたくない」「一目置いて欲しい」というおじさんの焦りと、「聞いていられない」「次に進みたい」という若者の余裕のなさが、「マウンティングおじさん」を生み出しているのかもしれません。

そう考えると「マウンティングおじさん」って悲しい現代の象徴なのかもしれませんね。

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